ある男の変わった人生

     生い立ちの樹

第一章 1 庄内
19XX
12月25日クリスマス。4歳の俺は庄内のおばの家で誰よりも早く目が覚めた。
枕元に置いた片方だけの靴下に何も入ってないのを見、慌てておばを起こしに行った。
「ジュークママ!来てない!」
取れかけのやたらとでかいまつ毛。化粧も落とさず、歯軋りを立てるおばに詰め寄った。
「ジュークママ!来てない!」
何度ゆすっても起きない。何度か目に
「ん!なんなん?!」
「サンタ来てない!」
「あほか!プレゼント買ったったやろ!」
「ちがう。サンタが来てない」
「そんなもんおるか!もう起こしな!!あふぉか!!!」
寝ぼけたおばは最強に柄が悪く、なぜ怒られたのか理解できなかった。
ただ、眉間にしわを寄せて怒る女が嫌いになったのはその時からだ。
母の姉であるおばは、おばと言っても当時20代のお姉さま。
(十三のママ)それを正しく言えず(ジュウークママ)となったらしい
いわゆる第2のママ(チーママ)である。
何時から何時までおばとごんちゃんと庄内の家に居たかは覚えていないが、母は俺を残し男と旅に出た。
何日?何週間?何ヶ月?その間の事はあまり覚えていない。
始めて見る男の車の後部座席に俺は居た。助手席の母が運転席の男と話していた。
俺を一緒に連れて行くと言う母に、だめだと男に言われ涙目の母を見てるのが嫌で、
俺はお気に入りのおもちゃで遊んでいた。
バロム1のボップ。携帯電話ほどのだ円形をした青と赤の光って音の出るおもちゃである。
番組の中でそれは探知機として危険を知らせてくれ、変身時にも必要な重要なアイテム。
しかも、それを投げて声をかけるとスーパーカー(マッハロッド)になる優れものだ。
今のおもちゃとは出来も違うが、当時の俺にはすごい物に思えた。ただ、
変身は出来ず投げてもマッハロッドにもならず、ボップと俺の心を傷付けた事を除けば...
男と母は、幼い俺には話の内容を理解出来ないと思っているらしい。
おばの家の近くで車は止まり母は俺に「ジュークママを呼んできて。ママここで待ってるから」
と、俺を見送った。男に急かされてる事を承知で母は俺を何時までも見送った。
俺は心の中で「早く行っていいよ」と言っていたのに。
ゆっくりおばの家に着き「ママが呼んで来てって。」「えーあかんって言うたのに!」
「どこにおるん?」「シキシマパンの前」「何でそんな遠いとこに?」
「寒いから中入っとき」そう言っておばは母の元に急いだ。
俺は心の中で「もう居ないのに」と言っていた。
中でごんチャンがコタツに座っていた。壊れてしまったのか、ボップが光らない。
「どうした?付かんのか?」「どれ。貸してみ。」と俺をあぐらの上に座らせ+ドライバーで
ボップを治してくれた。電池を入れ替えてくれただけだと理解できたのは何年も経ってからだったが、
その時のごんチャンは、俺にとってすごい人に思えた。
おならをする度「ごめん!」と渋い声で言う変な癖?がある。何故ごめん?何時も思っていた。
マー君はごんチャンを嫌っていて(あいつは最低や!)とよく言っていた。

よくおばに手を挙げていたらしく、弟として許せ無かったらしい。
ただ当時の俺にとっては、口数は少ないが優しさの伝わる好きなおじだった。
   2  大阪
幼い頃、服部で母と住んでいた。よく家の前で一人で遊んでいると近くの綺麗なお姉さんが
(何時も一人で遊んでるね。家においでよ)と声をかけてくれる人が居た。
静かで優しそうなおねえちゃんだった。ただ、極端に人見知りな俺は何時も断った。
するとお菓子をくれたり、一緒にしゃがんで話しかけてくれた。
実はそのおねえちゃんが声をかけてくれるのが嬉しかった。
しかし、一度もその人の目を見て話す事無く首を縦に振るか横に振る事しか出来なかった。
よく母にも俺を預からせてくれと言うようなことを話していた。
今にして思えば、そのおねえちゃんも寂しかったのかもしれない。
今の俺なら喜んで付いて行っただろうが、幼い俺はそれほど純情だったらしい。
気がかりなのは、俺がその人の事を嫌いだと思わせたのでは無いだろうか。と言う想い。
時々その人のことを思い出す。2番目の母が消えてから...。

   3  いとこ 婆ちゃん 苦手なもの
当時の俺は恐ろしく人見知りで友達を作るのが苦手だった。
いとこ達の中で俺は兄であり。いつも真一とリナが俺に付いて回った。
「兄ちゃん次何する?」それが二人の口癖だった。
次いで和美も加わり奈良美はまだ赤ちゃんだった。
俺は何時も遊びを考えなければならず、それでも俺を慕ういとこが可愛かった。
ただ、何時もグループで動く俺たちは他の子達と仲良くなれず意地悪もされた。
だからまた身内で遊ぶ。
困ったのは一人の時だ。元々一人っ子のママっ子。他の子に混ざる事が出来ない。
何時もTVを見るか、おもちゃで遊んでいた。
ある時期俺はお婆ちゃんと十三で暮らした。婆ちゃんは厳しく、時々意味不明な言葉で話す。
その正体が韓国語であった事を知ったのは14歳の時だった。
絶えられなかったのは冷蔵庫の匂い。開けた瞬間漬物、キムチの悪臭に気を失いそうになった。
そのおかげで俺は漬物恐怖症になり、スーパーの漬物売り場を歩くのも困難だった。
何時も、誰も信じてくれないのだが漬物に関しては、決して俺は食わず嫌いではない!
我が家の人々は皆、漬物好き。また、コリ。カリ。っとうまそうに食う。
俺も食べたくてカリ。途端に匂いが鼻を突き、吐いてしまう。
見かねた母がもう食べんで良いと言う始末。でも食べたいと言うと(キュウーリのQちゃん)
なら食べれるんちゃう?と言う事で何度かチャレンジしたが無理だった。
それどころか、逆に食感まで苦手になり温野菜や、炒め物にしてもだめ。さらに、
漬物になりそうな野菜の全てを苦手になり最悪な好き嫌いの多いガキになってしまった。
好き嫌いを許さない婆ちゃんもさすがに諦めていた。それ以来俺は一度も漬物類を口にした事は無い。
さらにその後、給食、住み込み先の食事でひどく苦しい思いをする羽目になるのだった。
ある時一人で遊ぶ俺に見かねて婆ちゃんが「外で遊んでき!」と言われ、
「一人で?」「入り口の家に子供いてるやろ。家行って‘遊ぼって’言うといで。」
「女の子やん」「関係ないわ!行ってこい!!」まー怖い婆ちゃんだった。
しぶしぶ玄関で名前も知らないご近所さんに
「遊びましょ」と叫んだ。これまた中から婆ちゃんが出てきて
「どこの子」と不振な子の俺に言った。「奥の2階の家」
「又今度ね」と、ドアを閉められた。(ほらみろ)と思いながら帰って報告すると、
「もう1回言ってこい!」「直樹です。友達になってって言うて来い」
俺は正直もう嫌だと泣きそうだった。
しかし、言い出したら聞かない婆ちゃんの性格は子供ながら理解していた。しぶしぶ玄関で
「遊びましょ!」もうやけくそだった。「また来たん!」
「直樹です。友達になって!」「ん?」おそらく俺は泣きが入ってたと思う。
「そうか。ほな、あがり。」奥で恥ずかしいのか怯えているのか、立って俺を見る女の子が居た。
名前も顔も覚えていないが、お互い名前を言って、初めての友達が出来た。
友達かそうで無いかは、互いの名前を呼び合えるかどうか。名前とはすごいものだ。
その時婆ちゃんにそう教えられた思いだった。
ただし今にして思えば結局、外で遊んだ訳ではないのだが。。。
そんなこんなでとにかく俺は友達を作ると言う行為が苦手だった。
変に相手が(自分をどう思うのだろう)と思ってしまう。
そもそも一緒に遊んでいれば勝手に友達になるのにと言う観念が無かった。

    4    庄内の借家
その後、母と俺は庄内のおばの近くで2階の借家に住んでいた。
元々、十三の店の裏に俺の部屋を作ってくれると言っていたので楽しみにしていたのだが...
裏のアパートにマー君と彼女が住んでいて、裏の窓から明かりが見える。
母がスナックに働きに行ってる間、俺は母の服を抱いて待っていた。
電気を消すのが怖く何時も光々と点けていたので電気代は高かっただろう。
ある日、あまりに俺が泣いているからと心配し来てくれたマー君の家で彼女と三人で寝た。
その時初めて黄色い豆球の光の中で寝たのを覚えている。
俺にとって黄色い豆球は、電気を点けたり消したりする時の邪魔者でしかなかったが、
こう言う時に使うのかと感心した。
だが俺は、薄暗くどこか寂しい豆球の黄色い明かりが好きにはなれない。
母が帰るとよく土産を買ってきた。そしてそれを食べ、ベットで子守唄を歌ってくれた。
「.....三輪車」なんという歌かは覚えていないが、3番まである歌だった。
可愛そうだと思われたが、俺は結構その暮らしは気に入っていたように思う。
何時もそばに居れない分、母は温かくそんな母を好きな自分も好きだった。
そして、我慢すると良い事がある。という事と同時に何でもない時間の大切さを覚えた。
ただ、母が睡眠薬を使うようになり様子は変わっていった。
 
    5     野田小学校
小学校入学。なぜか俺は、おばの家からランドセルをしょって母に見せたくて家へ走った。
途中、皆が少しだけ偉くなった俺を見ているような、そんな気になったのを覚えている。
2階の借家のガラス戸を何度も呼び叩いた。悔しくてガラスを割ってしまいそうなほど。
だが、ついに母は出てこなかった。また睡眠薬を飲んで寝てるのだろうとあきらめたが、
実はあの時、家に居なかったのでは?と思うようになっていた。
母が死ぬまでそのことを聞くことはしなかった。
聞けば母を許せないかもしれない。もしくは答えを信じられないかもしれない。
結局、母を責めるだけだろう。俺にとっても何も良い事はない。
小学校3日目。教室でクラスの男子と追いかけっこをしていた。
(友達になれるかもしれない)そう思っていた。ところが、俺の前でこけ、怪我をして泣いた。
皆が俺を見ていた。先生が来て「どうしたの?大丈夫?」その子は泣いていた。
「なにしたの?けんか?」俺は何も言えなかった。(勝手にこけたのに)心で言ったが。
「あら。保健室行きましょう」と、その子を連れて行った。
とりあえず、気まずい1日を終え先生が皆を校門まで見送ってくれた。「先生さようなら」
まさかそれが本当に最後のさようならになるとは露知らず。。。
校門を出て家に向かって歩き出してすぐ「直樹」と若い男2人に声をかけられた。
「だれ?」「パパの知り合い。そこの車でパパ待ってるから」と言われ車を見ると、
後部の窓からニヤリと笑った親父が居た。「パパどうしたん?」「迎えに来たんじゃ」
「ママは」「...。」「今までママとおったやろ?今度はパパの番だから一緒に行こうな」
「ん?そうなん?」「そう。そう」「ママは後で来るし」「そか。じゃーパパと行く」
「よし!行こう」車は、そのまま岐阜に走った。そして俺は大阪の生活を失った。
母にしてみれば、さらわれた思いだったと思うが、その時の俺には理解は出来ていなかった。