ある男の変わった人生

     生い立ちの樹

第一章 1 庄内
19XX
12月25日クリスマス。おそらく4歳の俺は庄内のおばの家で誰よりも早く目が覚めた。
枕元に置いた片方だけの靴下に何も入ってないのを見、慌てておばを起こしに行った。
「ジュークママ!来てない!」
取れかけのやたらとでかいまつ毛。化粧も落とさず、歯軋りを立てるおばに詰め寄った。
「ジュークママ!来てない!」
何度ゆすっても起きない。何度か目に
「ん!なんなん?!」
「サンタ来てない!」
「あほか!プレゼント買ったったやろ!」
「ちがう。サンタが来てない」
「そんなもんおるか!もう起こしな!!あふぉか!!!」
寝ぼけたおばは最強に柄が悪く、なぜ怒られたのか理解できなかった。
ただ、眉間にしわを寄せて怒る女が嫌いになったのはその時からだ。
母の姉であるおばは、おばと言っても当時20代のお姉さま。
(十三のママ)それを正しく言えず(ジュウークママ)となったらしい
いわゆる第2のママ(チーママ)である。
何時から何時までおばとごんちゃんと庄内の家に居たかは覚えていないが、母は俺を残し男と旅に出た。
何日?何週間?何ヶ月?その間の事はあまり覚えていない。
始めて見る男の車の後部座席に俺は居た。助手席の母が運転席の男と話していた。
俺を一緒に連れて行くと言う母に、だめだと男に言われ涙目の母を見てるのが嫌で、
俺はお気に入りのおもちゃで遊んでいた。


バロム1のボップ。携帯電話ほどのだ円形をした青と赤の光って音の出るおもちゃである。
番組の中でそれは探知機として危険を知らせてくれ、変身時にも必要な重要なアイテム。
しかも、それを投げて声をかけるとスーパーカー(マッハロッド)になる優れものだ。
今のおもちゃとは出来も違うが、当時の俺にはすごい物に思えた。ただ、
変身は出来ず投げてもマッハロッドにもならず、ボップと俺の心を傷付けた事を除けば...
男と母は、幼い俺には話の内容を理解出来ないと思っているらしい。
おばの家の近くで車は止まり母は俺に「ジュークママを呼んできて。ママここで待ってるから」
と、俺を見送った。男に急かされてる事を承知で母は俺を何時までも見送った。
俺は心の中で「早く行っていいよ」と言っていたのに。
ゆっくりおばの家に着き「ママが呼んで来てって。」「えーあかんって言うたのに!」
「どこにおるん?」「シキシマパンの前」「何でそんな遠いとこに?」
「寒いから中入っとき」そう言っておばは母の元に急いだ。
俺は心の中で「もう居ないのに」と言っていた。
中でごんチャンがコタツに座っていた。壊れてしまったのか、ボップが光らない。
「どうした?付かんのか?」「どれ。貸してみ。」と俺をあぐらの上に座らせ+ドライバーで
ボップを治してくれた。電池を入れ替えてくれただけだと理解できたのは何年も経ってからだったが、
その時のごんチャンは、俺にとってすごい人に思えた。
おならをする度「ごめん!」と渋い声で言う変な癖?がある。何故ごめん?何時も思っていた。
マー君はごんチャンを嫌っていて(あいつは最低や!)とよく言っている。
ただ当時の俺にとっては、口数は少ないが優しさの伝わる好きなおじだった。
   2  大阪
幼い頃、服部で母と住んでいた。よく家の前で一人で遊んでいると近くの綺麗なお姉さんが
(何時も一人で遊んでるね。家においでよ)と声をかけてくれる人が居た。
静かで優しそうなおねえちゃんだった。ただ、極端に人見知りな俺は何時も断った。
するとお菓子をくれたり、一緒にしゃがんで話しかけてくれた。
実はそのおねえちゃんが声をかけてくれるのが嬉しかった。
しかし、一度もその人の目を見て話す事無く首を縦に振るか横に振る事しか出来なかった。
よく母にも俺を預からせてくれと言うようなことを話していた。
今にして思えば、そのおねえちゃんも寂しかったのかもしれない。
今の俺なら喜んで付いて行っただろうが、幼い俺はそれほど純情だったらしい。
気がかりなのは、俺がその人の事を嫌いだと思わせたのでは無いだろうか。と言う想い。
時々その人のことを思い出す。2番目の母が消えてから...。

   3  いとこ 婆ちゃん 苦手なもの
当時の俺は恐ろしく人見知りで友達を作るのが苦手だった。
いとこ達の中で俺は兄であり。いつも真一とリナが俺に付いて回った。
「兄ちゃん次何する?」それが二人の口癖だった。
次いで和美も加わり直美はまだ赤ちゃんだった。
俺は何時も遊びを考えなければならず、それでも俺を慕ういとこが可愛かった。
ただ、何時もグループで動く俺たちは他の子達と仲良くなれず意地悪もされた。
だからまた身内で遊ぶ。
困ったのは一人の時だ。元々一人っ子のママっ子。他の子に混ざる事が出来ない。
何時もTVを見るか、おもちゃで遊んでいた。
ある時期俺はお婆ちゃんと十三で暮らした。婆ちゃんは厳しく、時々意味不明な言葉で話す。
その正体が韓国語であった事を知ったのは14歳の時だった。
絶えられなかったのは冷蔵庫の匂い。開けた瞬間漬物、キムチの悪臭に気を失いそうになった。
そのおかげで俺は漬物恐怖症になり、スーパーの漬物売り場を歩くのも困難だった。
何時も、誰も信じてくれないのだが漬物に関しては、決して俺は食わず嫌いではない!
我が家の人々は皆、漬物好き。また、コリ。カリ。っとうまそうに食う。
俺も食べたくてカリ。途端に匂いが鼻を突き、吐いてしまう。
見かねた母がもう食べんで良いと言う始末。でも食べたいと言うと(キュウーリのQちゃん)
なら食べれるんちゃう?と言う事で何度かチャレンジしたが無理だった。
それどころか、逆に食感まで苦手になり温野菜や、炒め物にしてもだめ。さらに、
漬物になりそうな野菜の全てを苦手になり最悪な好き嫌いの多いガキになってしまった。
好き嫌いを許さない婆ちゃんもさすがに諦めていた。それ以来俺は一度も漬物類を口にした事は無い。
さらにその後、給食、住み込み先の食事でひどく苦しい思いをする羽目になるのだった。
ある時一人で遊ぶ俺に見かねて婆ちゃんが「外で遊んでき!」と言われ、
「一人で?」「入り口の家に子供いてるやろ。家行って‘遊ぼって’言うといで。」
「女の子やん」「関係ないわ!行ってこい!!」まー怖い婆ちゃんだった。
しぶしぶ玄関で名前も知らないご近所さんに
「遊びましょ」と叫んだ。これまた中から婆ちゃんが出てきて
「どこの子」と不振な子の俺に言った。「奥の2階の家」
「又今度ね」と、ドアを閉められた。(ほらみろ)と思いながら帰って報告すると、
「もう1回言ってこい!」「直樹です。友達になってって言うて来い」
俺は正直もう嫌だと泣きそうだった。
しかし、言い出したら聞かない婆ちゃんの性格は子供ながら理解していた。しぶしぶ玄関で
「遊びましょ!」もうやけくそだった。「また来たん!」
「直樹です。友達になって!」「ん?」おそらく俺は泣きが入ってたと思う。
「そうか。ほな、あがり。」奥で恥ずかしいのか怯えているのか、立って俺を見る女の子が居た。
名前も顔も覚えていないが、お互い名前を言って、初めての友達が出来た。
友達かそうで無いかは、互いの名前を呼び合えるかどうか。名前とはすごいものだ。
その時婆ちゃんにそう教えられた思いだった。
ただし今にして思えば結局、外で遊んだ訳ではないのだが。。。
そんなこんなでとにかく俺は友達を作ると言う行為が苦手だった。
変に相手が(自分をどう思うのだろう)と思ってしまう。
そもそも一緒に遊んでいれば勝手に友達になるのにと言う観念が無かった。

    4    庄内の借家
その後、母と俺は庄内のおばの近くで2階の借家に住んでいた。
元々、十三の店の裏に俺の部屋を作ってくれると言っていたので楽しみにしていたのだが...
裏のアパートにマー君と彼女が住んでいて、裏の窓から明かりが見える。
母がスナックに働きに行ってる間、俺は母の服を抱いて待っていた。
電気を消すのが怖く何時も光々と点けていたので電気代は高かっただろう。
ある日、あまりに俺が泣いているからと心配し来てくれたマー君の家で彼女と三人で寝た。
その時初めて黄色い豆球の光の中で寝たのを覚えている。
俺にとって黄色い豆球は、電気を点けたり消したりする時の邪魔者でしかなかったが、
こう言う時に使うのかと感心した。
だが俺は、薄暗くどこか寂しい豆球の黄色い明かりが好きにはなれない。
母が帰るとよく土産を買ってきた。そしてそれを食べ、ベットで子守唄を歌ってくれた。
「.....三輪車」なんという歌かは覚えていないが、3番まである歌だった。
可愛そうだと思われたが、俺は結構その暮らしは気に入っていたように思う。
何時もそばに居れない分、母は温かくそんな母を好きな自分も好きだった。
そして、我慢すると良い事がある。という事と同時に何でもない時間の大切さを覚えた。
ただ、母が睡眠薬を使うようになり様子は変わっていった。
 
    5     野田小学校
小学校入学。何故か俺は、おばの家からランドセルをしょって母に見せたくて家へ走った。
途中、皆が少しだけ偉くなった俺を見ているような、そんな気になったのを覚えている。
2階の借家のガラス戸を何度も呼び叩いた。悔しくてガラスを割ってしまいそうなほど。
だが、ついに母は出てこなかった。また睡眠薬を飲んで寝てるのだろうとあきらめたが、
実はあの時、家に居なかったのでは?と思うようになっていた。
母が死ぬまでそのことを聞くことはしなかった。
聞けば母を許せないかもしれない。もしくは答えを信じられないかもしれない。
結局、母を責めるだけだろう。俺にとっても何も良い事はない。
小学校3日目。教室でクラスの男子と追いかけっこをしていた。
(友達になれるかもしれない)そう思っていた。ところが、俺の前でこけ、怪我をして泣いた。
皆が俺を見ていた。先生が来て「どうしたの?大丈夫?」その子は泣いていた。
「なにしたの?けんか?」俺は何も言えなかった。(勝手にこけたのに)心で言ったが。
「あら。保健室行きましょう」と、その子を連れて行った。
とりあえず、気まずい1日を終え先生が皆を校門まで見送ってくれた。「先生さようなら」
まさかそれが本当に最後のさようならになるとは露知らず。。。
校門を出て家に向かって歩き出してすぐ「直樹」と若い男2人に声をかけられた。
「だれ?」「パパの知り合い。そこの車でパパ待ってるから」と言われ車を見ると、
後部の窓からニヤリと笑った親父が居た。「パパどうしたん?」「迎えに来たんじゃ」
「ママは」「...。」「今までママとおったやろ?今度はパパの番だから一緒に行こうな」
「ん?そうなん?」「そう。そう」「ママは後で来るし」「そか。じゃーパパと行く」
「よし!行こう」車は、そのまま岐阜に走った。そして俺は大阪の生活を失った。
母にしてみれば、さらわれた思いだったと思うが、その時の俺には理解は出来ていなかった。
  第2章 岐阜   1  第2の母
目が覚めると隣に強力な化粧に香水ぷんぷんのおねえちゃんが俺を抱いて眠っていた。
その状況が理解できず、恐ろしさと恐怖で俺は漏らした。カラフルな妖怪に捕まった気分だった。
2番目の母とのはじめての出会いは、うろたえる俺に笑顔を向け、何も言わず
俺のパンツを脱がし、情けないチンコを洗ってもらい布団を干してもらう事から始まった。
化粧も落とし落ち着いた服に着替えたおねえちゃんは、とても優しく可愛い人だった。
岐阜県関市の家は大きい2階建ての家だった。家の前は交通量はそんなに多くないが広い道で、
大きな、上品な家が並び、すぐ先には小さな山や川があり環境の良い所だった。
家の前には外車がずらりと並び、若い衆と呼ばれる男が絶えず2人以上いた。
今思えば事務所を兼ねていたのだろう。
おねえちゃんに手を引かれ応接室に入ると親父と若い衆達が「起きたか」と笑顔で迎えた。
「まだ寝小便直ってないのか?」と言われ恥ずかしい思いをしたが、俺は心の中で
「カラフルな妖怪に捕まったからだ」と言っていた。すると、そのおねえちゃんが、
「横におねえちゃんおったからびっくりしたんやナー。」と真を突いていた。
ただ、俺によほど会いたかったのか、欲しくてたまらない新しいおもちゃを手に入れた
子供のように俺を放そうとしないおねえちゃんに、母とは違う、でも心地いい愛情を感じた。
ママっ子の俺が母の居ない寂しさを感じず、おそらくおねえちゃんと離れる事はつらい。
そんな存在になっていった。
        2  一番裕福な時期
親父はとても優しかった。そして毎日色んな所に連れて行ってくれる。
自然が好きな親父は、きれいな公園や、山にドライブ、そして何より鮎釣りが好きで、明け方
に起こされ、おねえちゃんは何処に行くにも弁当をつくって短パンで張り切っていた。
そんな’親子三人仲良く’な雰囲気がとても嬉しかったものだ。
当時24歳だったと思うが、今で言うギャルママってとこか。
ハイキングと言えば、しゃれたバスケットにサンドウイッチ、水筒2つにコーヒーと。
手で絞ったオレンジ・ジュース、大きなつばの帽子にサングラス、長めの透けるようなワンピース
とかなり上品でおしゃれなおねえちゃんは、俺にとって自慢のママ母だった。
皆、映画が好きで00曜ロードショーの時間はお茶とケーキでTVを見る。
子供の俺には解る訳ないとよく親父は言ってたが、子供の俺に見せる親父の方が意味不明だった。
それでも親子三人が無言で見るその空間がとても好きだった。
我が家の、いや、親父とおねえちゃんの生活スタイルは映画の1コマ1コマから影響されている。
時には洋画の、時には恋愛、家族邦画の、そして何より、やくざ映画の。..
今にして思えば、俺にとっても親父にとっても一番家族らしく、また、一番裕福な時期だった。
釣り以外の日はまず、朝10時には三人で喫茶店でモーニング。そこで本日の予定を立てる。
岐阜の喫茶店はモーニング競争が激しく・カツサンドに卵にサラダにヤクルト・などあたりまえ。
価格は250円~300円で、後1品増えるか、サンドをひねるか、味を変えるかが店の見せ所。
ただし、コーヒーor紅茶にかぎる。その為、俺はその頃からコーヒーを飲まされる羽目になった。
おかげで、コーヒーの無い生活はありえなくなり、大量に砂糖orシロップを入れて飲む癖がつき、
一定の甘さにしないと味の良し悪しが判らない変なコーヒー通になってしまった。
それでも、コーヒーの味にはうるさく、誰よりも長く、色んな店でコーヒーを飲んでおり、
誰が何と言おうと俺はコーヒー通である。と思う。
関市唯一の豪華なサウナ;サンジェルマン;を銭湯代わりにし、当時レディースサウナは無く、
俺と親父だけ3時間ほど入る。入り口に刺青お断りと書いてあるにも関わらず中はその筋の人が多かった。
中はフリードリンクで、色んなジュースを混ぜるのが楽しかった。
ちなみに俺の研究によると、当時ファンタ・アップルと言うのが在り、それとスプライトとコーラ
4:3:3の割合で混ぜるのが一番うまかった。
あと運動器具室、寝室、TV鑑賞室などがあり、昼行った時などに食べるラーメンが又うまかった。
間違いなくインスタントの札幌一番の味噌だが、キャベツに味がしみ込み、卵が絶妙な硬さ。
おかげで野菜嫌いの俺が、お好み焼き以外でキャベツを食べれるようになった。
そして、おねえちゃんはその間に家で夕食を作り、若い衆が外車で迎えに来る。
月に何度かは高そうなステーキハウスに行った。俺に食事のマナーを教える為らしく、
箸は使わせてくれない。しかも、(解らなければ見てまねをしろ。同じ物を同じ順番で食え。)
それが親父流の教育らしい。ただし、俺だけハンバーグステーキだった。
何週間、何ヶ月居ただろう。今思うとその間、俺は学校に行っていない。

         3 母との別れ
何時までもそうもしていられない。
と言うところだろうか、一度大阪に帰り転校の準備をする事になった。
ただ俺には、母と親父、母とおねえちゃん。どちらも選べない。それでも母は俺の中で特別。
判っている事は四人で住む事は出来ないという事。そして、母と離れる事はありえなかった。
それでも親父の「順番やから」「パパと住む番」と言う言葉は、俺に大きな選択を迫られた。
子供にとって母は特別であって、それでも父も大事なもの。自分に優しくされれば尚の事。
子供にとって本能なのか、不利な方に味方したくなってしまうもの。だと、俺は思う。
その時の俺にとって不利な立場は親父に思えた。また、俺を必要としてくれている様にも思えた。
登校日初めてランドセルをしょって母の家の戸を叩いた時やはり居なかったのだろう。
もしかしたら、俺は母にとって邪魔な存在なのでは?なら、親父の方に来た方が母の為にも
なるのでは?幸いおねえちゃんが居れば寂しくないかも。そんな気になっていた。
「パパ。又いつかママと暮らせる?」「あたりまえ。順番やから少ししたら又ママと暮らせる」
「でも会われへんの?」「冬休みには会えるぞ」「じゃーパパとおる」
そして、俺と親父とおねえちゃんと三人で一度大阪に帰える事になった。
最初に親父とおねえちゃんが母とおばとマー君たち高見家と話をしていたと思う。その後、
俺と高見家との話し合いだが、おばは、親父の方に行くことを促しているように思えた。
「直樹、お前が思った方にしいや。ママにはいつでも会えるんやしな。」
最初母と会わせてくれなかった。母はずっと泣いておりその姿を見たら俺の決意が変わると
心配したのだろう。7歳の俺に決めろと言うのもこくな話。ただ、皆俺の事を思っての事だと
わかっていた。こうしろとは言えず、又、母も行くなと言えず、「順番やからパパとこ行く」
俺はそれしか言えなかった。母は泣き崩れ、皆、のどから出掛かった言葉を涙に流しているのが判る。
お姉ちゃんも泣いていた。誰も何も言え無い。なぜか俺も泣いていた。
今にして思えば7歳のがきが何故そこまで皆の気持ちが判ったのか。
おそらく、皆、俺の事を大切に思ってくれていた事は本能で感じていたのだと思う。
後で母に聞いた事だが、お姉ちゃんになついていた俺を見て、親父と一緒に行った方が俺の為だと
思ったそうだ。ただ、俺は心の中で「行くなと言って欲しかった。。」と言っていた。

第3章 新たなる岐阜での生活  1 初めてのシュークリーム 

しばらくの間、関と言う町で暮らした。
関の孫六や、フェザーなど刀や刃物が有名で近くには野口五郎の実家、喫茶店もある。
家の並びにお菓子屋がありそこの息子が俺と歳が近かった。
たまに遊んだ記憶がある。そして道路を挟み迎えの家はお屋敷と言う体だった。
そこの娘も歳が近かった。三人で遊んでいると、その娘の母がきて
「シュークリーム作ったんだけど、美味しいかどうか分からないから食べてくれない?」
と言った。今思うと、なんと上品な誘い方。よほどの人だったであろうと思う。
俺は人に何かをあげると言われたら、欲しくても何度か断るよう教えられていた。
それが遠慮であり礼儀だと。貧乏人と思われるな!貴全としろ!ケツをかかれるな!
と、意味不明な事を教える親父は俺を上品でこだわりのある男に育てたかったらしい。
その教え道理「ありがとうございます。でもいいです。」俺は言った。
その娘の母は困った様だった。すると、菓子屋の息子が「俺たべたい。」と言った。
その娘の母はとても嬉しそうだった。(おいおい親父!話が違うぞ!!)俺は思っていた。
俺は悔しくて菓子屋の子に「何度か断らなあかんねんで!礼儀やぞ」と怒った。
その娘の母は苦笑いをして、「食べてくれると嬉しいけどだめ?」と俺に言った。
俺も言った手前、引けない。何処で折り合い付ければ良いのかが分からなかった。
「せっかく作ったから食べてくれると助かるんだけど。。」助かる?
それなら助けてあげなきゃ。俺はこれで(はい)と言えると思った時に、菓子屋の子が
「食べたくないなら俺が食べたるぞ。」(おいおい。)俺はあせった。
でも、その娘の母には見透かされていたらしく、「三人にたべてもらいたいの。」
思わずうんと言っていた。気の回る素敵な母だった。
映画に出てくるような白く大きな家だった。門を入ると中庭まで在った。外も中も洋風で
きれいな大きなリビングに招かれソファーに座っているとジュースが出てきた。
そして、お皿に大きなシュークリームをいっぱい乗せてテーブルで分けてくれた。
「どーぞ。」「いただきまーす。」
一口食べて「ん!?」俺は想像を裏切られ頭の中が真っ白になった。
菓子屋の子は「おいしい!!」と万遍の笑みだった。その娘の母が不安そうに俺を見た。
「お口に合わない?」「んーん。おいしいけど。。」「けど?」「白い。。」
俺はどうして良いか判らなかった。そのシュークリームの中身はホイップだった。
俺はホイップクリームのシュークリームなんて知らなかったし、シュークリームと言えば
カスタードだと思い込んでいたので俺には偽物を食わされた思いだった。
俺は、とにかく‘変子’で少しの違いに妥協と言う事が出来なかった。たとえば、
気に入ったおもちゃが在ると、まるっきりそれで無いと駄目なのである。似てるから、
同じキャラクターだからと言われてもそれは要らない。
アニメの主題歌のレコードを買ってもらえば歌手が違う。おまけに台詞が入っている物もあった。
当時は多かったが、俺にとっては許し難い偽物だ。「ちがう!!」そう言っては周りを困らせた。
又、当時、札幌ポテトが初めて出てCMでやっていた。買ってきて!と、おばに頼んだら、
さつま芋のスティック状のお菓子を買ってこられ激怒したら「嫌なら食うな!」と怒られた。
わがままと言えばそれまでなのだが、俺はこだわりだと思っていた。
おそらく、自分がわがままだと自覚のある子供は居ないだろう。
「あー。ホイップクリームは嫌い?」「嫌いじゃないけど..不思議」「じゃあ..」
「おいしくない..?」「おいしい。」「よかった」「じゃあ今度はカスタードで作るね。」
ほんとに良い母だった。娘も上品でニコニコしていた。
「おかわりは?」「はーい」「だから、何度か断るのが礼儀!」
「:食べてくれると助かるけど..。」「じゃーいただきます」
俺は、そのおかげで少し違う物でも別物として試す価値がある事を覚えた。
今思えば、うざいガキだったと思うが、困った事に俺は何年もそんな変な遠慮がちなガキだった。
 
         2    転校

しばらくして、長良と言う町のマンションに引っ越した。鵜飼で有名な岐阜の名所だった。
岐阜城のある金華山の下に長良川が流れ長良橋の周りは旅館で埋まっている。
春には川沿いを桜が覆い、夏になると各旅館の鵜飼舟で長良川は埋まり、盛大な花火を打ち上げる。
信長の野望‘天下不武’の足がけ城下と言う事もあり、大名気分を味わいたいのかもしれない。
清水コーポラスD-5
5階建ての5階だった。当時、その辺りでは一番立派なベージュ色のマンションだった。
ただし階段。結構きつい。1階には飲食店が並んでいた。
左角に喫茶店、隣が中華や、その隣はよく店が変わる。
その町でエレベーターが付いているのは旅館だけだった。と思う。
しばらくして川沿いに岐阜グランドホテルが建ったのが唯一の洋風旅館?である。
部屋に当たる2階がA、3階がB...と、つづく。
屋上は開放されていて、よく親父とキャッチボールをした。とり損なうと下に落ちては
車を傷付けたが、親父に文句を言う人はいなかった。
月に2度‘こう’と呼ばれる麻雀の日があり大勢家に来た。
親父の舎弟たちと、おねえちゃんは、接待係りとして忙しく、俺は親父の寝室から出るなと言われた。
さすがに朝までジャラジャラ、ワイワイうるさく、親父とおねえちゃんは俺に気使っていたが、
俺は、そのにぎやかさが好きだった。よく俺の部屋をのぞき小遣い銭をくれる人もいた。
好きなTVも見れるしお菓子もあるし自由で嬉しかったのだが、うるさくて眠れないのかと心配された。
2年の時に大きな台風で長良川の堤防が崩れ地域の広い範囲で床上浸水で水没したが
その時の親父の勝ち誇った顔は、組内でもかなりの敵を作ったに違いない。
ともあれ我が家の被害は車だけだった。その時だけはマンションの有難みが分かった。
前には大学のグランドも在り横はいちご畑。斜め前にはぶどう園。眺めも空気もよく水がうまい。
そこから5分ほどの所に岐阜市立長良小学校がある。そこが新しい学校だった。
とりあえず、知らない子供だらけの学校に行くのが嫌で仕方なかった。
ただでさえ恥ずかしがり矢だった俺にとって最大の関門だった。
1-2俺は岩井先生に紹介され席に着いた。俺は髪の毛が茶色く長めの7:3関西弁。
当時大阪はその辺の人になじみなく、TV番組にも大阪はほとんど出てこない。
もちろん漫才も、さほど人気はなく(おもろい夫婦はやっていたと思うが。)そのため
大阪弁を話す俺は珍しい生き物に思われたらしい。
そのため皆から大阪人と呼ばれた。ただし、宇宙人のいとこみたいな意味あいだった。
それでも逆に友達は増え楽しかった。しかし、親父の教えは男なら番長になれ。負けたらいかん!
この教えが俺をややこしくした。おまけに親父の子分たちの在り難い?ご指導も含め。
困った事に(あしたのジョー)が大好きだったおねえちゃんも否定しない。
「ジョーの何処が好きなん?」俺が聞くと「悪だけど強くて、子供に優しい所」と言っていた。
おかげで何をどう解釈していたのか俺は子分作りに励んだ。「いじめられたら俺に言え」
俺は皆にそう言っており、おかげであちこちでグループが出来、ちょっとした戦争だった。
グループの強弱は給食の牛乳の早飲みと、ふたの数。いわゆる子分が皆からふたを集める。
俺には5人の子分がいた。計6人1クラス45人、男子20人ほどだったが一番多かった。
ライバルは天然パーマの市川。あだ名はイッカ。実は仲良かった。
やんちゃな柴田と、陰険な橋口は双方2,3人ずつで集まったり孤立したり。
俺に付いたり、イッカに付いたり。ある意味、自由人。
柴田はだれかれ構わず悪さをする。兄二人、男3人兄弟と言う事もあり、やんちゃ坊主だった。
プールの時、タオルを巻いて着替えている女子のタオルを取って泣かしたり。。。
ぶつかってガラスを割ったり、そのくせ女子にかまれて泣いてたり。。。
スーパーで俺と親父とおねえちゃんで買い物に行った時の事。このバカは、
「お。つっぱ!」「やくざのこどもー!」と、俺をからかった。俺は「こらー!」と追いかけた。
柴田は喜んで「やーい!やくざのこどもー!!」俺にとっては大した事では無いのだが、
周りの空気は固まっていた。「こ、こら。な、なんて事を言う!」と店の人たちがあせっていた。
そして親父が険しい顔をして「帰るぞ」といった。「なんで?友達やで」と俺は言ったのだが.。
今にして思えば親父とおねえちゃんの心中は複雑だっただろうと理解できる。
悪気は無く楽しい子だったのだが。よくその子と兄たちとローラースケートをした。
橋口は、何時も誰かにいやみを言う癖があり悪口とあだ名されていた。
母子家庭らしく父は居らず母は旅館で働いていた。母はよく旅行に行っているらしく、
その間はお婆ちゃんが来ていたらしい。
芸者姿の母の写真が飾ってあり、橋口に良く似ていた。たまに俺と会うと、
「又遊びに来てね。」「仲良くしてあげてね」と優しいお母さんだった。
家には土産物がいっぱいあったが、どこか橋口は寂しそうだった。
橋口の気持ちが俺には解る気がしたが、あえて共感はしたくなかった。
よく土産のチョコをやるから家に来いと俺や何人かに声をかけていた。
ただし、その後、偉そうになるので嫌いな面があった。奴なりの友達の作り方だったのだろうが。
ある時、調子の良い転校生がやって来た。やたら俺を親分と呼ぶ。おかげで、俺は大阪人から、
‘ツッパってるから‘と、つっちゃと先生に呼ばれてた事をたされ、‘つっぱ‘と呼ばれた。
困った事に親父は満足そうだった。
時には喧嘩もある。ところが、意外と俺は強かった。TVで見た事のあった脇で首を絞める技が、
結構役立ち喧嘩で負けた事は無かった。ぎゅっと力を入れ「まいったか!」「まいった」
これで終わり。後腐れは無し。ただし俺の子分。遊びの延長プロレスごっこみたいな物だった。
そして俺は1-2の番長になった。他のクラスはわからない。その程度。

       3   誕生日会
俺は、北川けい子と言う子が好きだった。ある日誕生日会に誘われた。おねえちゃんに伝えると
「あら、良かったねー。プレゼント買いに行かないかんね。」「スーツも出しとこ。」と、
えらく喜んでくれた。びしっと7:3決めて、プレゼント持ってケイちゃんの家に行くと、
ケイちゃんの母が「来てくれてありがとう。さ、入って。」と中に招かれた。が、入って「げ」
クラスのほとんどの女子が座ってた。って言うか男子がいない。。。俺は動けなかった。
「イッちゃんの隣に座って」と言われて「あら。イッカ」と小さい声で呼んだが、イッカは
真っ赤になって下を向いていた。とりあえずケイちゃんにプレゼントを渡し、イッカの隣に座った。
「つっぱ遅いんじゃ」ぼそりと言われ、「男おれらだけ?」「そうみたい」「げ」いつもは
強気な二人もこの日だけは女子に圧倒され、おとなしかった。と言うより俺たちを見てニヤニヤ。
俺達は、ケイちゃんにはめられた。又、20人ほどの女子にも。
帰っておねえちゃんに伝えると「へー。なおとイッカもてるんだ。」とご機嫌。「ちがう!」
その時はどう考えてもいじめだと思っていたが、今にして思えば、もしかしたら俺達は
もてていたのかも?とも思えるが、所詮は小学1年生。大した意味は無かった。

       4  母 再会
冬休みに入り、俺は約束どうり母に合わせてもらうため大阪に行った。おねえちゃんの運転で
岐阜羽島に送ってもらい親父と俺で新幹線に乗る。
岐阜市内から羽島駅まで車で40分。当時電車は無く、バスか車でしか行けない不便な駅だった。
俺が社会人になって羽島に来た時は驚いた。新岐阜駅まで名鉄が20分で結んでいたからだ。
笑顔で「いってらっしゃい」少しさみそうなおねえちゃんが気になった。
新大阪に着き、タクシーで十三の店に向かった。
茶店でしばらく待って母が来た。会うなり俺を抱きしめ「ごめんな。ごめんな。」
と泣きくずれる。俺はどうして良いか判らなかった。が、嬉しくてたまらなかった。
仕事の準備らしく良い匂いとパリッとした白いスーツに栗毛色。わが母ながら綺麗だった。
歩いていても周りの男が母をちらと見るのが判る。母は気にもせず俺を抱き歩き、
おもちゃ屋に連れて行った。「なお。これ凄いやろ。なおに買ったろと思っててん」
タカラがはじめて出した金属のロボット。超合金・マジンガーZだった。マジンガーZは好きだったが、
その時の俺はサンダーバード2号がほしかった。「こっちがいい」「ほな、両方買ったる!」
強引に買ってくれた超合金。それが、その後の俺のおもちゃ人生を変えた。
又、おもちゃ業界も超合金の爆発的ヒットによりその後、恐ろしい数、種類の超合金を発売し
同時に超合金にする為のロボットアニメがたくさんTVで放映された。
その後母は「なお。店いこ」と俺の手を引く。親父は何処かで待つ事になったらしい。
俺がいた頃と違い、母は生き生きとしていた。何かが吹っ切れたのか、改めたのか、少なくとも
俺と離れたから良かったと思う様ではなかった。店を開け「アレー何処の子?」客が言う
「うちの子!似てるやろ。うちの宝や。」「えーそんな大きな子?ほんまに?」皆が言う
店は結構はやっていた。「さ、なお。なに食べたい?」「あと頼むで。うち、なおと出るから」
まーさばさばしてると言うか歯切れが良いと言うか。久々の関西弁と言う事もあり、圧倒された。
子供ながら、お客さんにそんな堂々と子供が居る事を言って良いのかと心配したものだった。
ところが親父と三人で居ると、また、口げんかが勃発。しばらくして岐阜に帰ることになった。。。
それでも、元気な母に会え安心すると共に、母と離れたくないと言う思いが俺の心を締め付けた。
母の居ない時、母の服を持って寝た頃のように、俺は、超合金マジンガーZを離せなくなった。

      5  お母さん
おねえちゃんは本当に良きママ母だった。
2年の時おねえちゃんは妊娠し、俺に兄弟が出来る。そういう話だった。
しかし、逆子だったらしく流産した。その時の俺には逆子の意味が解らなかったのだが、
退院した後おねえちゃんは俺に涙をこらえ解りやすく説明してくれた。
親父は「仕方ない。そういう運命やったんじゃ。又できる。」そう言っていた。
その後、乳が張るたび‘すって‘と言うが「恥ずかしいからいや。」と言うと
目の前でコップに乳を出し「飲み。おねえちゃんの栄養やから」とよく飲まされた。
今まで病気や入院もせず来れたのはそのおかげ?かもしれない。
そして、今まで以上に俺を自分の子のように見てくれたように思う。
勉強に厳しいお姉ちゃんは家庭教師みたいだった。
そして、休みの日など野球から帰ると何時もフレンチトーストを作ってくれていた。
マンションの前に大学グランドがありよく皆で野球をした。5年生くらいの子が教えてくれる。
窓からグランドが見えるので、おねえちゃんは俺の帰りを知っていたようだった。
友達が来るとまた、フレンチトーストを作ってくれる。出来立てのそれは本当にうまかった。
ある時、友達のお母さんから「土屋君のお母さんが作るフレンチトーストってどんなの?」
と聞かれた。俺は、「卵つけて焼いてる甘いやつ」と言うと、「私が作ると、違うって言うの」
「どう違うのって聞いても、解らんけど違う。ツッパのママの方がうまいと言うの。」
と言う。それが、2,3人の母からも言われ、ある時、家のを食べてと言われ作ってもらった。
「ああ。違う。。。。」「やっぱり?」「これ、砂糖かかってるし、卵硬い。」
「おねえちゃんのは卵に砂糖いっぱい入れて半熟っぽく焼くの」「ああ。そうなんだ」
その時、皆がおねーちゃんのフレンチトーストをほめてくれた事が嬉しかった。
よくいろんな友達の家に行くとそこのお母さんに「土屋君のお母さんは若くて綺麗やねー」
と言われ嬉しかったが、「あ。育ての母です」と俺が言い、本当の母は大阪に居ると説明していた。
別に説明する必要もないのだが、隠す事もないし、何より母の存在を消されるようで嫌だった。
おねえちゃんは、お姉ちゃんとして好きだったのだが、やはり俺の母は一人だと伝えたかった。
ある時、誰かからその事を言われたのか、お姉ちゃんは元気なく、親父は俺に言った。
「お前の母さんはもちろん大阪やが、岐阜に居る間はおねえちゃんの事をお母さんと呼んだれ」
他人にいちいち説明するなと言われた。俺は理解できなかったが、おねえちゃんが悲しんでいる
と聞き、納得した。が、お母さんと呼ぶ事はなかなか出来なかった。
俺は毎日50円小遣いをもらっていた。それを持って駄菓子屋へいくのが楽しみだった。
その日、小遣いをもらってなかったのでおねえちゃんに急かした。後でね。と言われ俺は怒った。
俺は非常にその50円が必要だった。実はその日は、おねえちゃんの誕生日だったからだ。
俺は少しづつ貯金をしていた。ケーキを買うために。たしか、950円だった。
何時も買ってもらう、何とかベーカリーと言う店のケーキが我が家のお気に入りだった。
理由を説明すると、店主は「いいよ。これ、50円サービスしとくね」と言ってくれた。
実はもう1つ高い方のが良かったのだが、さすがに買えなかった。
それでも三人で食べるには十分の大きさのケーキだったのだが。
その晩、それを渡すとおねえちゃんは泣き出した。俺は照れ隠しで、
「あと50円足したらもっと大きいの買えたのに。」といやみを言って見せたが、そんな訳は無い。
早く食べようと言う俺に「パパに見せるまでまってね。」と俺を抱きしめた。
その時、自分の努力した金でプレゼントする喜びを知った。
いつか自分がもっと喜びを与えれるような人になりたい。と、そう思っっていた。
俺にとっても、おねえちゃんにとっても、大きな意味のある日だった。
それは、俺が初めて自分のお金で買ってあげた事。そして、ロウソクの真ん中のプレート上だが、
俺が初めて‘お母さんお誕生日おめでとう’と、‘言った’事。
その日から、俺はおねえちゃんの事をお母さんと呼ぶ事にした。ついでにパパをお父さんに。

俺はいろんな人におもちゃを買ってもらっており、俺はおもちゃ屋が出来ると良く言われた。
変な癖があり、箱も取っておく。飾らない物は買った時のように箱に入れ、押入れに積む。
それだけ多く、飾れないのである。ただ、一つ一つにその時の思い出がある。
買ってもらった時の事、買ってくれた人の事、箱から出す時、手に取る時思い出す。
子供にあまり物を与え過ぎてはいけない。などと言う人もいるが、必ずしもそうでは無い。
子供は、TVや本や物から想像力を養えると俺は思っている。
俺の場合、学校よりも映画や、まんがから学んだ物のほうが多いようにも思う。
そして、それらを生かす場が学校であり、おもちゃで想像し物語を立体化する。
車であったり服であったり、自分を飾る物は、自分と共に変わる物。
今でもおもちゃを買うが、あの頃のような感覚は得られない。大人とは鈍感なものだ。
ただ、その頃の気持ちを少しでも思い出させてくれるなら価値はあると俺は思う。

           6 指詰め
親父は、若い頃に、理由は知らないが、左手の小指を詰めている。
そのせいなのか、残った右手の小指だけ爪を伸ばしていた。そして俺は、右手の親指を詰める羽目になった。
とは言っても無くした訳ではないのだが。
ある日、親父とおねえちゃんはパチンコに行き、俺は、下の階に住んでる小林と家で遊んでいた時の事。
夏だったと思うが、暑い時は窓とドアを開け風が通る様にしていた。
5階の風は強く涼しい。5センチほどの厚い鉄のドアだったので、上のチョウツガイの間にスパナを
噛ませるのだが、2年生の俺には届かず椅子に乗りスパナを挟んだ。が、突風にあおられ、スパナをはじき、
バタンッと、大きな音と共に俺の右親指をはさんだまま閉じた。「グア!こば!開けて!」俺は叫んだ。
重いドアは、なかなか開かず、こばは焦っていた。やっとの思いで開くと同時に、右手が血だらけになった。
慌てて水道で手を洗うと、親指の第一間接から先はぐちゃぐちゃだった。
痛みは無く、ズキズキと熱かった。こばは、真っ青になって固まった。
とりあえずタオルでくるみ、「こば、ごめんちょっと寝るわ」「うん。でも大丈夫?」
「大丈夫。すぐ直る。でもちょっと眠いから今日は帰ってくれ。」
本当に眠気がした。おそらく気を失いそうだったのかもしれない。
しばらくして、こばと、コバのお母さんが来てくれた。
「土屋君大丈夫?」と言いかけて青ざめた。巻いていたタオルが真っ赤だったからだろう。
「お医者さん行こう!」「大丈夫もうすぐ父さんと母さん帰ってくるから。」
「じゃあ、おばさんとこで応急手当だけでも」「ううん大丈夫」「させてもらわないとおばさんが困るから。」
と言う事で、こばの家に運ばれた。タオルを取るとそこは修羅場だった。こばが「うわー」と叫び、
おばさんも「これはひどい」と顔をしかめた。爪は剥がれそうになり、皮膚がさけて生身が出ていた。
だが、熱いだけで感覚がなかった為、俺は余裕を見せていた。
包帯を巻いてもらい止めるのを断り俺は家に帰った。
一人になり、ベランダのボンボン・ベットで横になると、徐々に熱さから激痛に変わり、俺は涙と血が止まらな
かった。しばらくして親父が帰った。ドアと水道周りの血を見て驚いた様だ。
「直樹!。何があったんじゃ!」慌てて叫んだ。俺は声を振り絞って
「ドアではさんだ」「ひどいんか?」「つぶれてる。こばのおばちゃんが手当てしてくれたけど病院いかないかん
って言っとった」「見せてみよ!」血で張り付いたタオルをやっとの思いではがし、巻いてもらった包帯を又
はがせと言う。見たとたん「んん。」さすがの親父も声が出なかったらしい。パチンコやに電話し、おねえちゃん
を呼び出してもらい、「すぐ帰って来い!直樹が大変じゃ!」と伝え、しばらくしすると、おねえちゃんが、
慌てて帰ってきた。見ていたかのように親父が説明し、こばのおばちゃんに聞きに言った。
そして親父はおねえちゃんに怒鳴った。「ほれみよ!俺がもう帰るぞと言った時に帰らんからじゃ!」
「虫の知らせやったんじゃ!」と怒鳴った。
実は親父は負けていて、おねえちゃんは出ていたらしい。
つまり、出なかったのは‘虫の知らせ’のせいで、自分の博打運のせいではないと言う事らしい。
そして医者にも連れて行かず、「歯食いしばれ!」「ウガー!」俺は叫び、おねえちゃんは両手で顔を覆った。
親父にオキシドールをかけられ血と白い泡が膨れ上がった。それをガーゼで拭き包帯で巻かれた。
「病院行かんでいいの?」と聞くおねえちゃんに「大丈夫じゃ。わしもこうやった!」で終わらされた。
俺は、今まで生きて来て、その時ほどの痛みを知らない。が、親父の痛みは理解できたと思う。ただし俺は2年生。
それ以来オキシドールが怖くて仕方ない。
しかも、最近の医学では、オキシドールは強すぎて回復が遅れる事が判ったらしく、水道水だけで十分殺菌作用が
あり、消毒した時よりも直りが早く、傷跡が残りにくいと言う事だ。
それを知った時、俺は心の中で(ふざけるな!)と叫んでいた。

        7 あきちゃん
1階にお好み屋が出来た。俺とおねえちゃんはよくそこで暇をつぶした。
入れ替わりの激しい右端の店だった。おねえちゃんは何故かその変わる度に仲良くなる。
今度は、母、娘の店だった。奥は居住スペースが1部屋ありそこに幼稚園くらいの娘がいた。
おねえちゃんと店のお母さんはよく涙ながらの世間話をしていた。お互い苦労しているらしい。
俺もよく娘と遊んであげた。
ある日、娘の誕生日会に招かれた奥の部屋にケーキと特性カレーが振舞われた。
ただ、俺とおねえちゃんの口には合わなかった。目を合わせ「何これ」俺が小声で言うと
「牛乳入れすぎかも」とおねえちゃん。営業しながらの誕生日会の為、その子の母は、
定期的に様子を伺いに来る。「どう?どんどん食べてね。」「はーい」。。
まだこっちで幼稚園に入ってないらしく同じマンションの子供2,3人ほどが来ていた。
忙しくなったのか、おねえちゃんも手伝っていたので子供たちだけになった。
その時隣の中華屋の男の子が、その子を泣かせてしまった。
大した事ではなかった筈だが、その子の母の慌てようが忘れられない。
「どうして、誕生日にうちの子を泣かすの!」「もう帰って!!」
理由も聞かず男の子を叱った。俺は訳が解らず恐怖した。今度は男の子が泣きながら帰った。
とりあえず気まずい誕生日会が終わり俺はその母の事が怖くなった。
それから数ヶ月後、母娘は店を閉めどこかへ行った。
次にちょっとした居酒屋さんになった。男っぽいおばさん兄弟の店。
当然のようにおねえちゃんの入りびたりが始まった。
そして新しい常連客の洋子さんと言うおばさんが加わった。おねえちゃんは洋子さんとえらく
気が合うらしく家にもよく遊びに言った。
洋子さんはおねえちゃんより少し年上の上品なおばさんだった。とは言っても30歳位。
旦那さんと、俺より2つ上のアキちゃんという綺麗な娘がいた。
旦那さんは優しそうな人だった。俺が行くと何時もオセロをした。
男の子が欲しかったらしく、俺を可愛がってくれた。俺を見ると必ず「ここに来い」
と、俺をあぐらの上に座らせたがる。洋子さんが「なおくん、嫌やろうけど座ってあげて」
と、何時も苦笑いをしていた。アキちゃんはそれを見て笑っていた。
アキちゃんと俺はよく、皆が集まる駄菓子屋へ俺の自転車の後ろに乗り遊びに行った。
よくカップルとからかわれ恥ずかしかったが、アキちゃんは楽しんでいた様に思う。
「自分の自転車があるくせに」俺が言うと「いいからのせて。」「なおちゃんいけー」
いつも俺がこがされる。今で言うパシリだったのかもしれない。
ある日俺は無理やり親父に鮎釣りに連れられアキちゃんの家に行けなかった。
帰るとおねえちゃんが「あきちゃんがなおに渡してって。」と、青いドクロのキーホルダーを
くれた。あきちゃんがお気に入りだった物で、ピンポン玉ほどのドクロの顔で、口を開けると
目が飛び出す。俺は、欲しいと言った覚えは無かったので「なんで?」「さー。」
ま。結構、意味不明な所のあるアキちゃんだった。
長い髪のすらっとした美人なあきちゃんは学校でも有名な美人。だが俺はケイちゃんが好きだった。
4年の男子がよく俺をからかってきた。「お前、あいつ好きなんか?」「うるさいわ。向こう行け」
一応、俺は2-1の番長。4年も関係なし。学校では敵なしだと思っていた。
2こ上と言っても2年生と4年生。この年代に先輩、後輩の意識はない。
アキちゃんと居る時にはちょっかいを出さない。今にして思えば、その子達が好きだったのだろう。
おねえちゃんと洋子さんは、そんな俺たちを見て「お似合いやん。」「今から相乗りって」
「なお かっこいいやんかフューフュー」「うらやましいわー」まー言いたい放題。
自分達がくっつけておいて、からかうおねえちゃんと洋子さんは、当時まだ若かった。
それでも俺になついてくれるアキちゃんが好きだった。ただ、恋人ではなく姉でもなく、しかし
ただの友達でもなく、逆に恋人であり、姉であり、時には妹のような不思議な想いがあった。

 
        
           8 瀬戸一家
3年の時、‘こう’の日が増えた。毎週くらいあり、多い日は週2回ほどあった。
場となる我が家に、場代が入るのと、何より親父は麻雀が強かったらしい。
組内でも大事な博打には‘くろ’と言われていたのを何度か聞いた事がある。
その他の日は事務所当番やら何やらで親父は家に居ない事が多かった。
ただ、家に居る時は機嫌が悪い事が多くなり、おねえちゃんとの喧嘩も多くなる。
俺の顔を見ると(男らしくせい!)と、切れる。そのくせ言い返すと殴られる。
かと思えば、人前では妙に優しくなったりと、そんな親父が俺もおねえちゃんも嫌だった。
朝まで続く‘こう’の日は、親父もさすがに疲れるらしく栄養剤を打つようになった。
その頻度が徐々に多くなっているのが俺もおねえちゃんも心配だった。
親父は、瀬戸一家と言う愛知、岐阜、三重の東海地区を中心にした博打打の組員で、
当時はかなりの規模で日本全国で認められた由緒正しい極道つまり‘やくざ’である。
山口組が少しずつ勢力を伸ばしていた時だったが、親父は「あれは、見境の無い‘暴力団’じゃ」
「わしらは、堅気に迷惑をかけず厳しい修行に耐え男の道を究めた極道じゃ。一緒にするんじゃねえ」
と、よく吼えていた。当時の俺には意味不明だったが今は多少理解できるのだが、残念な事に、
その後、瀬戸一家は山口組に潰され吸収されたのだった。
鮎釣りが好きな親父は夏場だけで一年中の日焼けをするため何時も黒い事から「くろちゃん」
と呼ばれていた。兄貴分の人達からは「くろ。」と呼ばれていた。ちなみに身内は「宮ちゃん」
その頃、親父の兄貴分に当たる‘いさにい’と言う人が組を受け組長になり親父の‘おやじ’
になった。親父は若頭(わかがしら)になった。ナンバー2と言う事らしい。
いさにいはイサオと言う名からで、体は大きく全身に刺青を入れ顔はブルドックに似ていた。
ただ、とても無口だが、たまに見せる笑顔がとても魅力な人で、子供の俺には優しい人だった。
奥さんは正反対に小柄でとても勝気なこ奇麗な人だった。組員はもちろん親父もたじたじだった。
「くろ!」と親父を呼び捨てに出来る女性は、おそらくその兄姉‘アンネエ’だけだろう。
だが、どうも親父はいさにいを小ばかにしたような事をよく言っていた。
さも、自分の方が実力が上だと言わんばかりに。そんな親父を俺は嫌いだった。
いさにいの前では敬語を使う親父が陰口を言う。子供ながらにその親父が情けなく見えたからだ。
子分たちはそれに対して何も言わないが、その子分の中にアンネエの弟みっちゃんが居たのに。
おねえちゃんは、いさにいとアンネエに良くして貰っていたのもあり、よく親父に怒っていた。
いさにいとアンネエには子供が居らず、俺を可愛がってくれた。周りに誰もいない時だけ見せる
いさにいの優しい顔と色んな話は、俺とアンネエしか知らないのかもしれないと思えた。
後で気づいたのだが、お年玉がすごかった。学校で「00円以上もらった人」と聞かれた時、
最後まで手を上げたのが俺で10万円以上あった。
実際俺の手元にはおもちゃ代2000円ほどしか貰えなかったが、そう言う物だと思っていた。
又、毎年夏に組内で海に行った。皆プールに行けない為と、中途半端な数で行くと他の組ともめる為、
一家総出となる。何十台と言う数の高級車で旅館を借り切りになる。海辺にはロープが張られ、
一般の人は、こちらに入れないし、こちらも行けない。いわゆる隔離?みたいな物。
ロープを超えて来る人はまず、いないだろう。俺でさえ刺青の大群に圧倒された。
それでも同じ年くらいの子がいて俺は仲良く遊んだ。ところが、その子は‘頭領’の子だった。
一家の偉いさんらしいその子の父に皆、頭を下げる。俺もその子に敬語で話した。
すると、親父に「お前は、その子の子分か?」と言う。「父さんより偉い人の子なら気使うやろ?」
と言うと、「子供同士は気使う必要ないわい」と言われ困惑したことを覚えている。
現在、俺の店に来た時、心樹が、お客さんに「ありがとうございました。」と頭を下げる。
教えた訳でも無いのに。そんな時、嬉しくもあり、申し訳なくもあり、親父の言葉を思い出す。
夜になると、より一層柄が悪い。あちこちで「お疲れ様です!」と言ったり言われたりを繰り返し
落ち着く暇も無い。たえずあちこち見回しながら歩くおっさん達。
その時の俺は、(大人は大変だな)と思い、自分もそうなるのだろうと思っていた。
ただし、その翌年に当たるこの年の旅行は様子が違った。そして二度と行く事もなくなった。
  
          9 親父の狂乱

いつもの様に、明け方日本海に向け出発した。まだ日が上がる前だったので、おそらく4時頃だったと思う。
俺は眠たいのを我慢しながら親父と迎えに来た車に乗った。おねえちゃんと若い衆達が荷物を車に積み、
途中の待ち合わせ場所の事務所前へ向かった。そこには5台ほどの車が集まっており、組長の‘いさにい’
に挨拶し、各組が集まる現地に向かった。
俺はしばらく寝ていたのだが、騒がしい車内に目を覚ますと、親父がわめき、若い衆が必死になだめていた。
おねえちゃんが居ない事に気づき見渡すと後ろの車の前で‘あんねえ’と険しい顔で話していた。
「兄貴、どうしたんすか?」「さむい、さむいんじゃー!」こんなやり取りが続く。
バスタオルを巻いてもガタガタ震えながらほえる親父は、確かに異常だった。
現地までは近かったようだが、行くか戻るかで話し合ってるらしい。
当時は、ポケベルも携帯も無い時代。近くの公衆電話で誰かが話していた。
戻ってくると、「とりあえずもう少しだから現地向かいましょう」と言う事で、再出発したものの、
また親父が暴れだし、おねえちゃんと若い衆は困り果てた。
全員で親父を囲み必死に声をかけるが、「さむいんじゃ!こら!」手がつけられない様子だった。
おねえちゃんは泣き出し、しばらくすると、親父は、「さむいの」「さむいよー」と、
こんな情けない親父の言葉は初めて聞いた。そしてまた、「おろせー!」と暴れだす。
俺には何が何だか解らず見守る事しか出来なかった。そして、一同はやむ無く岐阜に戻った。
その後、一旦マンションに戻り若い衆の護衛が付き、親父と俺とおねえちゃんは軟禁された。
事務所で自体をどうするかを相談していたらしいが、お抱えの医者が来るのも、行動も少し遅かった。
親父は暴れだし、若い衆も、おねえちゃんも、とても止められる状態ではなかった。
親父は皆を振り切り階段を下りて言った。若い衆は震えながら、「ねえさん!すんません!」と泣きながら
‘どす’を持って追いかけようとしたが、おねえちゃんが、「まち!まって!」と泣きながら食らい付いた。
それを払い、若い衆は親父を追った。おねえちゃんは俺に「直樹、家から出たらいかんよ!」と言って、
後を追って行った。事務所から電話があり、事態を伝えると「直樹、お父さんは大丈夫だから心配するな。」
と言われたが、とでも安心できる状態ではなかった。
俺は、色んな映画や、ドラマを見ている。今までの状況で、おそらく‘そう’言う事だと理解した。
‘こう’の時、栄養剤だと言って打っていたのは、麻薬だと。覚せい剤だと知ったのは、翌年だった。
しばらくして、若い衆が、俺を呼びに来た。「直樹、お父さんを落ち着かせてくれ」
俺は、前の大学の裏門に連れて行かれた。門の外は、組員やら野次馬やらで人だかりになっていた。
門越しで親父とおねえちゃんが話していた。「直樹を渡せ!」親父は叫んでいた。
思えば、親父は狂っていても俺を大事に思っていてくれたらしい。それが理解できる年になった時、
俺は、中学生だった。そして無性に親父の声が聞きたいと、大阪で思っていた。
若い衆に‘どす’を向けられ一瞬われに戻ったらしい。しかし、後から追いかけてきたおねえちゃんを見て
皆が自分を殺そうとしている。そう理解したらしい。そして俺と一緒に逃げる為に大学の門の中から、
叫んでいる。そうする事で人目に付く為、若い衆は、‘どす’を抜けない。
確かに親父は頭が切れた。本人は、歴史が好きで、大学に行きたかったと聞いた事がある。
俺に課された役目は、親父と離れない事、そして我に帰った時「家に帰ろう」と言う事。
大学の門の上から贈呈された俺を受け取り、親父と俺は大学の体育館の中をを横切った。
「直樹、逃げな殺される!走れ!」バレーや、剣道の練習中の生徒が皆こっちを見ていた。
不思議なのは、よくあれだけの騒ぎのなか警察が来なかった事だ。
後で聞いた話では、当時は、組の力も強く警察には6時間と言う条件付で話が付いていたらしい。
つまり、その間に親父を組が捕まえろと言う事だった。
親父は、正気に戻ったり、訳のわからない事を言ったりを繰り返す。
時計屋に入り「直樹、好きな時計買ったる。どれじゃ。」「別にいらない。家に帰ろう」「何!」
店員に「それよこせ!」店員は震えながらミッキーの目覚ましを差し出した。
それを俺に持たせ店を出た。後ろでおねえちゃんがお金を払い何やら話し間を置き付いて来た。
親父は気付いていないらしい。何より、親父は財布を持っていない。
そして親父と俺はバスに乗った。後ろからおねえちゃんも乗ってくる。こっちを見るなと合図して。
俺はここまでだった。親父は、バスの中で突然「止めろー!」とほえた。そしておろせと言い出した。
「直樹いくぞ」さすがに俺はキレた。「いや!家に帰る」「なんだと。てめー」俺に殴りかかった
瞬間おねえちゃんが、俺を引き寄せ外から若い衆が親父を抑えた。が、又も振り切り逃走してしまった。
バスの中では誘拐だと思われたが、おねえちゃんが親父は病気だと説明した。
その後1週間ほど、俺は若い衆が面倒を見てくれた。おねえちゃんは親父に付ききりだったらしい。
誰もその時の事を教えてくれなかった。翌年、おねえちゃんが居なくなった時、‘あんねえ’が、若い衆に
おねえちゃんの事を話しているのを聞いて知る事になった。
親父は逃走後、民家に押し入り警官に捕まったらしいが、警察には行かず、組の事務所のベッドに
ロープで縛られ1週間おねえちゃんが寝ずに介抱したらしい。「あんな嫁は居らん。本当にようやった。」
「実際は、ドラマとは違う。私でも根あげてたわ」
「あんな苦しそうなクロみて、殺したった方が幸せと違うかと泣きながら皆言っていた。」と。
それでもおねえちゃんが、「私に任せてください必ず正気に戻します。」と言って聴かなかったらしい。
何度も途中表で泣いていたとも。相当に壮絶だったらしい。
「トルコで知り合ったあの子が、くろにあそこまで出来る子だとは正直思って無かったわ」とも。。


10  何度目かの正直

親父が家に戻ってからは、状況が変わっていった。本家の当番が多くなる一方家には若い衆も来なくなる。
親父は何とか正気に戻ったらしく、後遺症代わりに注射器・恐怖症になった。
かなりの行け行けやんちゃ親父だったが、実は異常に怖がりな所があり、その落差に驚かされる。
昔、下呂と十三で拳銃を突き付けられた事があったらしく、ジュウや、ガンと付く言葉も嫌った。
俺がモデルガンを欲しいと言うと、えらく怒られた。ジュウソウも嫌い、後にガンダムでも怒られた。
子犬もだめ。高い所もだめ。と、色々な弱点があるが、今回のシャブ事件は、親父にとって1,2を
争うほどの最大の恐怖だったらしい。
おかげで、二度と薬に手を出す事は無かったのが救いだったが、何時もぴりぴりしていた。
’こう’も無くなった。おねえちゃんと喧嘩も増えそのたび俺を連れて洋子さんの家にうさ晴らしに行った。
だが、しだいに洋子さんと付き合いだしてから言う事を聴きかなくなったと言い出し、洋子さんのうちに
行くなと言い出した。これには、さすがにお姉ちゃんも怒り、豊橋の実家に帰ってしまった。
しばらくして親父と俺は名古屋までおねえちゃんを迎えに行った。
そしてビヤガーデンに行き、さみしい思いをさせたからと言っておもちゃを買ってくれた。
そんな事が度々あり、俺はおねえちゃんが家出をする度におもちゃを買ってもらえる。そう思うように
なっていた。
ある時、突然おねえちゃんは千羽鶴を織り出した。「千羽作ったらお願いが叶うのよ。」「ふーん。何のお願い?」
ニコッと笑って「お父さんと離れられますように。」「げ!」「うそよ。」しかし、うそではなかった。
しかも困った事に何も知らない親父も時々嬉しそうに手伝っていた....。
ある日、博打の負けが込んだらしく親父は資金繰りに困っていた。そしておねえちゃんのお母さんに
借りてくるよう頼んだ。おねえちゃんはいつもと違う寂しそうな顔をして俺を見ていたが、そんなおねえちゃんに
俺は超合金買ってきて!と土産の事しか言わなかった。
何日も帰ってこず、連絡もつかず、親父が迎えに行くと引っ越して居場所が分からなくなっていたらしい。
親父は洋子さんの家に乗り込み居場所を言えと吠え立てた。何度も行ったらしくとうとうアキちゃん達も
引っ越してしまった。
俺に優しくしてくれた女性は皆いなくなってしまったが当時の俺にはその状況が理解できなかった。
ますます生活も苦しくなって行き、食事といえば鮎ばかりだった。大きな冷凍庫には一年中鮎が入っている。
入りきらない分は居酒屋などに1匹500円ほどで売っていた。天然鮎は高く売れたらしい。
おかげで俺は鮎と言う魚はいつでも食べられる魚だと思っていた。
何ヶ月かして給食を食べ終えると、「つっちゃ!急用らしく帰りなさい。」と言われ、廊下に出ると、
長い毛皮にサングラスを付けたおねえちゃんが俺を待っていた。
「なお。元気?」「…うん」当時の俺にとっての何ヶ月は自分が思う以上に長く、おねえちゃんとの距離も
出来ていて、照れなのか恥ずかしいのか、おねえちゃんの顔を見てうまく話せなかった。
いつものようにおもちゃ屋に連れて行ってもらったが、別に欲しい物は無かった。
それでも何かを選ぼうと思った。俺にとっておもちゃは、その時その時の道しるべであり、出来事を思い出す
鍵になっていた。その時の道しるべは、ウルトラマンタロウの基地の超合金だった。
茶店で今までの生活ぶりを話していると、「大阪のママは元気かな」と聞かれ「..うん」と答えたが、
どういう意味かは理解できていなかった。「じゃあ。また連絡するね。」「え。帰って来たんじゃないの?」
「まだ、途中。」「そうなんだ。。」俺はどうせすぐ帰ってくると思い込んでいたので、あっさり別れた。
親父には秘密という事でおねえちゃんと会った事は伝えなかった。
その後、何ヶ月かしておねえちゃんから電話があった「なお元気?」「..うん」「困ったことは無い?」
「うん」俺は半分怒っていた。どうせ帰って来るならさっさと帰って来てよ!と。「寂しくない?」「うん!」
だが、それが、何度目かの正直で、本当におねえちゃんとの最後の会話になってしまった。
あの時「寂しい。早く帰って来て。」と言えていたら、もしかしたら帰って来てくれたのかもしれない。
そんな想いが、おねえちゃんを思い出すたび俺を苦しめた。
中学を卒業し、俺は理容師の修行の場を名古屋に選んだ。地元大阪で修行するのが嫌だったのだが、
もしかしたら、どこかでおねえちゃんと会えるかもしれない。そう思っていた。
出来ればもう一度だけ逢って伝えたい気持ちがあった。
戸籍を頼りにおねえちゃんを探したが、手がかりは無かった。
大きな大会に出て有名になればもしかしたら会いに来てくれるかも。そんな思いで多くの大会に出て賞を
もらい、小さく新聞にも載ったのだが、連絡は無かった。
それ以来、俺はどんなに愛した人でも、愛していても、別れられる人間になってしまった。
同時に好きになれば、なるほど別れの覚悟をしてしまう。
どんなに愛しても別れが来る。特に俺の場合そういう性分なのだろう。それが恐ろしく、
もう好きな人と別れる苦しみを繰り返すのは嫌だ。ならば、別れは来るものだと覚悟すればいい。
そう自分に言い聞かし、締め付ける心を慰めた。
それほど逢いたい人と逢えない苦しさは俺の心をボロボロにしていた。
だが、どんなに覚悟をしても、その後いくつもの別れを繰り返し、やはり傷付き、それでも慣れていく。
さらに両親の死という決定的な別れをも20代で味合わう羽目になった。

         11 教生の先生

3年になり教生の先生と言う3人の女性の研修生が来た。
一人は体の大きな元気な松井先生、そして中くらいの可愛い先生、そして、小柄な気の弱そうな先生。
松井先生はいつも元気でいろんな遊びを教えてくれた。特に大様落としという遊びは学校中ではやってしまい、
休み時間になると超だの列を作りじゃんけんしながら上に上がって行く。
勉強もわざと間違えては、皆に怒られ「あ。そうでした。」などと言うので、皆、間違うのを期待する。
おかげで、生徒はまんまと勉強に集中して覚えが早くなる。そして先生をいじめたいから勉強する。
学校が終わると公園で待ち合わせ皆で野球をした。松井先生を迎えに行くのが俺の仕事になり先生の寮からは、
俺を後ろに乗せてかっ飛んだ。おねえちゃんの代わりに俺は松井先生が心の寄り所になっていた。
3ヶ月ほどの研修期間が終わり、三人の先生が、手紙とビーズで作ったトンボを2匹皆にくれた。
手紙を読むと俺の良い所、がんばらなければいけない所、好きな所を書いてくれていた。
驚いた事に、中くらいの先生は実に俺の事を良く見てくれていた。もっといろんな事を話せたらよかったと
後悔したものだ。ただ、ほんの少しだけ俺もあんな先生になってみたいなと思わせてくれた。

         12 二度目の転校
それからしばらく俺と親父の2人暮らしが始まった。うるさい親父が居ない一人の時が多く、
俺は宿題もせずTVばかり見ていた。顔を会わせれば喧嘩になり、一人の方が楽だった。
ある日、俺はひどい風邪をひき三日間寝込んだ。驚いた事に親父は、その俺をだしにして
母を呼び寄せた。気が付くと母が横に居る事に驚いたものだ。
おねえちゃんが帰って来ないからと言って母を呼ぶのは卑怯だと思ったが、やはり嬉しかった。
自分で作ったと言う‘昇り鯉’の刺繍の絵の額を持って来てくれた。
この絵のように昇っていく様にと願って作ってくれたらしい。
母はすぐ帰らなければならないと言ったが、親父は母を責めた。結果、いつものように喧嘩勃発。
風邪が治りかけた俺をさらに疲れさせる親父が嫌いになっていた。
それから間もなく引っ越す事になった。
その後も、おねえちゃんの行方はつかめず、ほとんど家にいない親父にとって本家事務所の近くの方が良い
と言う事で長森と言う長良川をはさんで金華山の裏に当たる町に引っ越す事になった。
嫌だと言う俺の意見は、完全に無視され自分の部屋をくれると言う餌ひとつで二度目の転校を強制された。
この時から俺の反抗期が始まり、親父との喧嘩が堪えなくなる。あまり親父が家に居ないのが救いであった。
今度は部屋数は在るものの日当たりの悪い古い木造の奥まった一軒家だった。
事務所と若い衆の努くんの家の間に位置していた。
「近いからお父さん居らん時はうちで飯食え。」努くんは、奥さんと、とっくんと言う幼稚園の子供がいた。
現在、山口組テキヤ部門の大親分になっている。
親父には、兄貴分と言う事もあり夫婦ともにとても気を使っていたが、とても仲のいい家族だった。
明らかに親父より羽振りが良くなっていて、大きくは無いが日当たりの良い一軒家に愛車のでっかいカマロ
が止まっていた。部屋には唐獅子牡丹の刺青姿で刀を持つ高倉健の大きなポスターが張ってある。
そう言えば努くんの刺青は唐獅子牡丹だった。ちなみに俺の学ランの刺繍も唐獅子牡丹。部屋はいつも綺麗で、
いつお客さんが来ても良い様に。これは、極道さんの鉄則らしい。表でええ格好してても部屋を見れば生活ぶり
が分かる。玄関、靴は綺麗に。足元見られるな。ケツかかれるな。ついでに、いつ死んでも恥じかかないように
下着は綺麗に。銭湯いったら横の人より長くしっかりチンこを洗え。そうすると、周りの人はしっかり
チンコ使って男らしく、うらやまいと思うらしい。なんじゃそれ。なのである。
ちなみにケツをかくとは、極道用語で、そそのかされる。とか、策にはまる。とか言う意味で。
油断するな。とか、なめられるな。と言う意味らしい。
ともあれ、新居は日当たりの悪いぼろ借家。天国から地獄の気分だった。風呂はガスをマッチで付けて沸かす。
トイレは当然のようにボットン。小便中いつもウンコがお元気ですか?と言ってる様に見える。
関の家もそうだった様な気はするが、マンション暮らしの長かった俺には恐怖だった。
かろうじて部屋は3つありその1つは俺の部屋になったが、裏は一面ガラス戸で、気持ち悪かった。
有難い事に町の至る所に‘八つ墓村’のポスターが張ってあり、TVでは(たーたりじゃー)とうるさく
エクソシスト2の宣伝が、一人の夜が多い俺を追い詰めた。
今にして思えば相当に運が悪い時期だったらしく、オカルト映画の絶世期だった。
電気代が高くなるため大阪の時のように電気をつけっぱなしにする事は出来ず、ろくに眠れぬまま、
新しい学校に行く羽目になったが、それが何よりの恐怖であり、俺は何もかもやる気を無くしていた。
とりあえず又も関門の転校初日。俺は、岐阜市立長森北小学校4年4組に3学期から登校した。
ただ、すぐ5年だったのであまり覚えていない。
5年1組に上がり、さー又番長はらな。そう意気込んでクラスを見渡すと生意気そうなのがいた。
近藤健二。名字にならいマッチに似た男前な健二も3つ上のやんちゃな兄がいる為、いわゆるつっぱりだった。
母子家庭で、スナックをしている綺麗な母と、兄、妹まゆみちゃんの三兄弟。後に弟が生まれたが..。
そんな環境のせいか、小学生で髪に油をつけ、皮靴を履いていたのは健二くらいだろう。
当然俺と健二はメンチの切り合い。他に気にする相手はいなかった。
厄介なのは学校で1番怖い先生で有名な林先生が担任だった事。20代後半の林先生は、引き締まった
筋肉質の体育が専門の先生だった。何かあると男女お構いなしに強烈な平手が飛んでくる。
授業中よそ見をすると高速でチョークが飛んでくる。ただ、ある日、狙いがずれて隣の女子の目に当たり、
先生はえらく反省し、その後チョークが飛ぶことは無くなった。何事にも熱く生徒おもいな先生は、PTAや、
ママ達から人気が高く、ちょっとしたファンクラブ的なものまであった。卒業生もよく先生に会いに来た。
いろんな授業を提案し、後ろの黒板に英語をカタカナに直したクリスマスソングを暗記させ、毎朝駅伝を走らせ
野外合同体育と称し2組と合同で近くの大きな公園でフットベースなどをした。俺たちが卒業した年に、
皆に祝福され2組の先生と結婚した。つまり堂々とデートしてやがった訳だ。
終戦記念日には宇宙戦艦ヤマトを全学年に歌わせ‘地球を離れ’の歌詞を‘祖国を離れ’と毎回わざと間違って
歌い皆に怒られては謝り、後で皆に祖国って何?と質問されていた。そして祖国のために戦って死んでいった
人達の事を、生きたくても死ななければならなかった人達の事や戦争の傷跡を話してくれた。
休みの日は、よく先生の家に行くとまずいお好み焼きを食べさせてくれた。料理はあまりうまくなかった。
             13 初めての敗北
放課後、俺と健二の果し合いになった。各3人ずつで喧嘩だったが、俺の味方はあっさり裏切り健二に付いた。
当然と言えば当然である。何の義理も無い転校生の俺に無理やり連れて来られた連中だったから。
ただ、負けたことの無い俺は天狗になっていた。軽く二人を泣かし健二に向かった。
ところが、三人に抑えられ健二に近づけない。その後倒されデブのベッツに上から押さえられ身動き出来ないまま
ボコボコに殴られた。一番俺におびえていたベッツが、今までの恨みとばかりになぐられ俺は何も出来ないまま、
悔し涙が止まらなかった。「泣いてるぞ。もう止めたれ」健二が言うと皆帰っていった。
やられたショックと、俺は今まで本当の喧嘩をした事はあるのか?と言う責めとで、起き上がる事が出来なかった。
すると、ムーちゃんが俺を起こし、「たーけやなつっぱ。帰ろう」と、寂しそうに言って俺を担いで帰って
くれた。がり勉タイプの細くメガネを掛けたムーちゃんは、家の近所の食堂の息子であまり話した事は無かった。
家で反省していると親父が帰ってきた。俺の顔を見るなり「どうしたんじゃ!誰にやられた!」と吼えた。
鏡を見ると顔中真っ青に晴れ上がっていた。目の中も切っていたらしく白目に赤い点が出来ていた。
ただ、俺は傷の痛みより、やられたショックのほうが痛かった。
事情を説明してムーちゃんの食堂に連れて行かれた。そして林先生に電話し、翌日クラスで話し合う事になった。
結果的に3人がかりでやられた事になり俺に誤ってもらう事になったが、喧嘩を売ったのは俺であり、負けた事に
代わりは無く、気まずいスタートになってしまった。今まで威張っていた俺が負けたと言う事で健二よりベッツが
調子に乗り出した。弱そうなこをいじめたりあからさまに俺を無視した。そんな俺にいつも優しくしてくれたのが
ムーちゃんだった。
次第にべっつは我がままになり皆に嫌われだした。しかし、体の大きなベッツに誰も文句も言えず俺がやられた
時の事もあり恐れられていた。健二も子分の様に扱われ不満そうだった。
しだいにべっつは何かと俺に絡んできた。「つっぱとカッパって似てるな。」などとからむ。
その度にムーちゃんが俺をかばった。「つっぱ。気にするな。喧嘩するなよ。」「…。」
ムーちゃんになだめられ仕方なくこらえてはいたが、正直な所、又喧嘩したとして勝てるか自信が無かった。
べっつもちょっかいは出すが、いざ喧嘩とまでは行く気が無い。俺の様子を見ながらのいじめだった。
ただし、俺の見方をする弱そうな子には胸ぐらをつかみ威嚇し出した。俺は何も出来なかった。
辛かったのは、先生のいない自習の時などベッツはやりたい放題だった。
黒板につっぱかっぱなどとデカデカと書いたり皆に俺の前で言うよう命令したり。
あからさんな、いじめだった。
             14 番長 復活

6年になり、ある時親父が車を買い換えると言い出し、時々ディーラーの人らしきセールスマンが、
パンフレットと見積もりを持ってよく家に来ていた。
サバンナRX7。当時スーパーカーブームで、ランボルギーニカウンタックは俺達の憧れだった。
国産の市販車で初めてカウンタックのように隠しライトのRX7はもはやスーパーカーだった。
親父は無免許の癖に車好きで、若い頃から色んな車に乗っていた。アメ車のような縦目のグロリア、ハコスカ
フェアレディーZ、ローレル、コスモ、セリカマスタング、そしてRX7に行くらしかった。
パンフレットのそれは、緑のメタリックに、ライトを開けている2シーター。
Zの時は、おねえちゃんが居たので俺は後ろの斜めのガラスに張り付いて乗せられ最悪だったが、今回は俺と親父
だけなのでその心配は無い。俺は楽しみで仕方が無かった。
学校で皆に自慢した。「まじで!つっぱすげー!」俺が買う訳ではないのだが、皆に言われた。
ところが、何週間、何ヶ月経っても来ない。さすがに、「RX7いつくるん?まだ?」と親父に言うと、
「事情が変わった。コロナにするぞ。」「げ。なんでじゃ!俺嘘つきになるやんけ!!」「やかましい!」
案の定、嘘つき呼ばわりされ俺は、ぐれた。そして反抗期でもあってか俺は親父が大っ嫌いになった。
そんな頃、体育の授業でラグビーを習っていた。何故かチーム分けすると俺とベッツは敵になる。
最初は偶然なのかと思っていたがおそらく先生の計算だったのだろう。
当然体の大きなベッツを止めれる男子は居ない。で、ぐれた俺は強かった。
敵なしでボールを持ってベッツが走ってくる。皆、吹っ飛ばされるか逃げる。そこを俺がウエスタン・ラリアット
逆に吹っ飛ばした。ベッツも皆も驚いていた。林先生が飛んで来て「つっぱ!今のブロックは良いが、首ではなく、
足にくらい付け!」何回やっても俺のラリアットが炸裂ベッツはさすがに怒り、林先生には「首狙うな!」と
怒られた。ただ、その日から皆の俺に対する雰囲気が明らかに変わった。
そして体育はバスケットボウルになり、当然のように俺とベッツは敵同士。
チームの皆が俺に期待する「つっぱ頼むぞ!」「おう。任しとけ!俺が取ったらすぐゴール走れよ!」
ワンマンなベッツは、皆に愛想を尽かれていた。そんな皆に威嚇し言う事を聞かせていた。
ベッツは敵視むき出しで俺に向かって来た。俺は自分で言うのも何だが運動神経がよく一枚上だった。
手が出ず、さすがにベッツが切れた。ボールを放さず俺を突き飛ばした。とうとう俺は切れ大喧嘩。
先生が止めに来た時にはベッツが倒れかけていた。「やめんか!」と言われると同時に俺はベッツの顔面を踏みつけた。
シーンとした体育館にベッツの頭が床に叩きつけられた音が響いた。今までのウップンがスーッと消えた。
次の日からベッツは別人のようにおとなしくなり、皆は俺を持ち上げ自分で言ってもいないのに番長と言われたが、
俺は、番長はもういい健二がなれと言ったら、「なら、二人で番長やろう」と健二が言った。
どうせなら北小の番長やろか。俺と健二は気が合った。ただし、皆が嫌がる事はしない。弱い物いじめもしない。
そう誓った。
            15 岐阜市立長森北小学校の番長

当時の俺達に番長は必要な存在だった。他のクラスともめた時、他の学校の子ともめた時など、番長が出ていく事になる。
俺と健二は、学校でも有名だった。特に俺は、転校生で、生意気で、ベッツにやられて、ベッツに勝った強い奴。
健二は大人っぽく男前で強い奴。と言う事だった。気が付けば俺と健二は同じくらい背が高く、ベッツを見下ろせる
ほどに伸びていた。
俺達よりでかいのは、4組の西田だけだった。ただし、4組は女の先生でやたら愛だの恋だのを生徒に語る先生で、
そのせいか、西田を中心に皆仲良く、西田は男子からも女子からも慕われる俺達の理想の番長だった。
俺達から喧嘩を売ったら間違いなく悪者である。
そんなある日、誰かが「4組の奴で革ジャン着てリーゼントの奴が居る」と言う。健二は「何じゃそいつ。生意気やな」
と言い出した。「つっぱ。チャンスやぞ!そいつ呼びだそ!したら西田も来る。人数は相手に合わせるって事で」
「なるほど、それなら堂々とやれるな」所詮6年生。むちゃくちゃな理由を付けて放課後、砂場で決闘になった。
狙いは、西田。こいつに勝てば皆が認める北小の番長。
「つっぱ。西田は俺にやらせてくれ」「大丈夫か?」「つっぱは革ジャン頼むわ」「ちゃっちゃとやって西田手伝うわ」
「よし。」実際目の前に来ると俺達より頭一つ分ほどでかかった。がっちりタイプで倒すのはちと難しそうだった。
革ジャンはひょろっとしてつんとした奴だった。4対4だったが、他の二人はあまりやる気が無かった。
とりあえず「土屋じゃ。よろしく」これがスタートの合図となった。勇気と言う名前の革ジャンは、わりとがんばったが
俺の敵ではなかった。しばらくして、俺の必殺ヘッドロックでしめあげ5分ほどは踏ん張ったが力が抜けるのが解った。
途中西田がヘルプに来たが、俺の蹴りと健二が引き離した。周りは、4組の応援団ばかりで、やはり俺たちは悪者だった。
ただ、ムーちゃんをはじめ何人かの男子と女子が俺たちを応援してくれた。
「どうじゃ、まいったか!」俺が言うと噛み締めて我慢していた。「根性あるな!」よし。と言ってロックをはずすと
息苦しそうに倒れた。その後、西田に飛び蹴りを食らわせ健二のヘルプに入った。さすがに強く中々倒れない。
何とか健二が倒し俺のヘッドロックで締め上げた。「つっぱ、もういいぞ」「西田、引き分けで良いか?ただ、
俺らが番長と認めろ」「勝手にせい!そんなもんどうでもいいわ!だが勇気に誤れ!」と言う。
勇気は「俺のん革ジャンじゃねえぞ!ビニールじゃ!」と俺達をにらんだ。俺と健二は目が点になっていた。
ともあれ、事実上俺達の勝ちで俺と健二は北小の番長になったのだが、そのせいで中学でえらい目にあう事になった。
           
          16   おませな二人?壊れた二人。
土、日など俺達はよく柳ヶ瀬:ヤナガセ:へ行った。そこは岐阜唯一の繁華街で、近鉄百貨店、高島屋
パルコ、などの百貨店をはじめアーケードの商店街がいくつもつながりワシントンホテルなどの大きなホテルも
沢山あった。岐阜には地下鉄が無く市内の足は、バスか、赤い路線電車、通称チンチン電車であった。
結構大きな町で大きなビルが並ぶ都会の雰囲気があり、おかげで岐阜は大阪と変わらぬ都会だと思っていた。
少し離れた西柳ヶ瀬はスナックなどの盛り場で柄の悪いおっさんがウヨウヨしていた。
そして岐阜駅の裏には、有名なトルコ街:金津園:カナズエン:があり夜の街を彩った。
金津園と言えば、3年の時、遠近写世絵大会:えんきんしゃせえたいかい:と言うのがあり、この岐阜駅の
屋上から町を見て遠近感のある絵を描くと言う行事があった。
俺は絵が得意だったらしく、学校代表で何かの雑誌記者が写真を取りに来たほどだった。
しかし、その時ばかりは俺の絵を飾られる事は無かった。当時おねえちゃんが何でだろうと親父にも言っていた。
ただ、俺の絵を見て二人は「そらいかんわ。」と声をそろえた。そう。俺は皆と逆を向いて描いたため、ビルの
看板達は皆トルコの文字が入っていた。今で言えば目いっぱいソープ街を描いた事になる。
さすがに親父は「何でこんなとこで絵描くんじゃ!」と怒っていたが、3年の俺にトルコの意味は解らず、
誰も理由を教えてくれなかった。「後ろを向いて描いたから」ただそれだけで俺の絵は闇に葬られた思いだった。
それ以来、俺はしばらく絵を描くのが嫌になったが、その絵が今もあればレア物だろう。幻の射精大会と名付けたい。
話は戻り、当然そんな場所に子供だけで行ってはいけない。だが、そこへ行くのがつっぱりだった。
当時、校内暴力や家庭内暴力と言った少年非行の真っ只中で大人は子供に対し神経質だった。
校区内と言うのがありこの道から向こうは違う学校区だから行ってはいけないと言う。境付近には補導員が見回っていた。
俺の北小は、中心地で範囲が狭かった。当然すぐ校区外。その度「お前ら何処の学校のもんじゃ!」と喧嘩を売られる。
その度、俺のとび蹴りが炸裂。もしくはダッシュで逃げた。と同時に俺達は有名になっていたらしい。
しだいに行動範囲は広くなり、柳ヶ瀬に行くのも当たり前になっていた。
俺達は健二の家で髪をセットし、健二の兄の服を借りチャリンコで1時間ほどでそこに行き、ねり歩き、
補導員によく追いかけられた。捕まると「何処の学校!ご両親は!」と怒鳴られる。そんな時は、「親、パチンコ」
「どこの!」「そこ」「連れて行きなさい!」と言う事でパチンコ屋まで行き、探す振りをしながら逃げる。
俺は長良の頃から親父達と柳ヶ瀬に来ていたので道にも店も詳しく皆の道案内をしていた。
百貨店のおもちゃ売り場がメインだったが、おかげでエレベーターガールのお姉さんと、おもちゃ売り場の姉ちゃん達
とは友達になった。当時TVゲームが初めて出て、百貨店のおもちゃ売り場ではそれを出来る唯一の場所だった。
常連の俺達は当然うまくなり、客寄せイベントで王者決定戦が行われ、俺は負け知らずだった。
店員の井上たず子と言う可愛いお姉さんが俺を可愛がってくれ、社員食堂でよくおごってくれた。しだいに、
たずちゃんに会うのが楽しみで一人でもよく行ってゲームをしていた。ある時「直君、上で大会やっててエントリー
してあるから商品取ってきて!」と頼まれ出場した。結構大きな大会で、たずちゃんの弟と言う事で出場し優勝した。
どんな大そうな景品かと思えば何かのペアーカップだった。ふう俺とたずちゃんとで1個ずつか。と思いながら
俺には興味が無いのであっさりあげたらえらく喜んでくれたが、事情を聞くと前から欲しかったカップらしく、
しかも俺ではなく彼氏とペアーで持てると喜んでいた。 なんじゃそれ!と、俺は心の中で叫んでいた。
彼氏のつもりだった俺はあっさり撃沈された。その後たずちゃんは転勤になりTVゲームは、ブロック崩しから
スペース・インベーダーへと変わりブームに拍車をかけ、俺の心の穴を埋めるべくインベーダーを打ちまくった。
一方、健二はだんだん派手になりポマードを付け、なんと皮靴を履いて来た。恐らく俺達はどこか壊れていたと思う。

                17 バレンタイン

卒業間近の昼休み、女子に「男子表に出て!」と叫び追い出された。俺は何事かさっぱり解らず、しばらくすると、
「もういいよ。」と叫んでいた。健二は心当たりがあるらしく「あれや。」「なに?」「チョコやろ!」
「なんじゃそれ?」「女子が、好きな奴にチョコ机に入れとるんやろ。」「はあ?」「つっぱTV見てないんか」
「見とるぞ!マンガは。」「知らんのか?」「何時からそんなんあるんじゃ?」「最近じゃねーの?」「ほー」
教室から女子が恥ずかしそうに出て行った。代わりに男子が入り机の中を探していた。そこで俺は後悔した。
俺の机の中は、それは見事にゴミ箱だったからだ。どうせ親父は見ないプリント、給食の残ったパンをハンカチに
包んで入れてありカビが生えていた。そんな事と知っていれば綺麗にしておいたものを。と。
当然そんな中にチョコレートを入れる物好きはいないだろう。と、思いきや4つも入っていた。「げ。」
ご丁寧に奥に入れてある物や、包みが汚れないように端っこや、少し片付けられていた。
3つには、メッセージとイニシャルが書かれたカードが入っており1つには、何も書いてなかった。
ま。結局女子の方がおませなのである。俺はチョコレートが食えて嬉しかった。
ところが、浅井が泣き出した。「俺、入ってない!」と.。
次の日から、女子の雰囲気が変わった。相手の反応を気にしているらしい。健二は一番多く当たり前のような
顔をしていた。俺はイニシャルなんて解らない。H.S、S、I。長森には、やたらと沢田と言う名字が多く、その内の
二人だろうSと、Iと、無名。結構気になる。健二いわく、来月その中に好きな子がいたらお返ししなければ
ならないと聞き、相手が解らない事にはどうしようもないと言うと、「俺好きな子おらんから返さんで良し」と言う。
俺は西村たまきと言うわりと優等生な子が好きだった。ムーちゃんは、2つ入っていたらしい。
ムーちゃんにアルファベットの本を借り調べるも、Nはなし。無名さんは?などと期待もしたが、不明。H.Sと、Iは
すぐに解った。ムーちゃんと俺と何故か付き合いの無いもう一人の男子と女子三人とで土曜日に遊びに行こうと女子
3人に誘われた。その中の一色が、Iらしい。同じ班で、いつも掃除の時などにからかう仲だったが、その日は妙に
照れていた。すると今度は、冬美たちが遊びに行こうと誘ってきた。恐らく学年で一番可愛かった沢田冬美がH.Sだった。
これは意外だった。冬美は双子で4組に雪美がいた。そう言えば西田たちとの喧嘩の時もいた。
それと、修学旅行の時、奈良の旅館で何人かが食中毒になり俺がリヤカーで医療所へ運んでやった事があった。
その時、俺の顔をじっと見つめていたのを思い出した。俺は好き嫌いが多く、食べなかった物の中に悪い物があったの
だろう。きっと漬物だと俺は心の中で言っていた。
女子に誘われたことの無い俺はつい両方のグループにいいよと言ってしまい、どっちと行くのと責められた。
「みんなで行ったらいいやんけ!」と言うと、隣でムーちゃんがため息をはいていた。
結局その後、曜日を変えて2グループと遊び、残りの二人は分からず終い。
その後、女子はだんだん積極的になって毎日手紙が来る。内容は{あなたがあの子が好きなら私はあきらめます}。
お互い似たような内容だが、;つっぱ;から、あなたへ昇格されても対応に困り、俺は無視する事にした。
俺は、まだ付き合うとかそういう事に興味がなく、TVの中の金髪のお姉さんと、メーテルに恋していた。
         

 

 

 


妻、娘、俺のすべて
  1 久仁子との出会い
俺の人生で一番幸せな事は、妻 久仁子との出会いだった。
そして、心樹の誕生により俺の生きる意味は大きく変わった。
俺は親父の余命がわずかである事を知った時、元嫁との結婚を決意した。
愛するよう努力はしたが、親父に続き儀父の葬儀、妹達との同居などの環境の変化と、
母に貸した俺名義のカードと義父に貸したカードも財産代わりに俺の手に戻る羽目となり
おまけに山のような出費の嵐による借金の事もあり元嫁のストレスは俺への不満となっていた。
元々結婚する気が無かった事を知っている元嫁にとっては、俺の口先だけの愛情は通じない。
申し訳ない気持ちと、納得いか無い気持ちと、愛そうとする気持ちが相手を傷付けて行った。
そして、その不満が妹達に向かった時、一年持たず離婚と言う答えを出したが複雑な思いが残り、
俺は振り切るように家を出た。店で寝泊りしていたが、妹達の事もあり何度かは家に帰った。
俺がいない間は妹達に優しく接している事を知っていたからだった。
また、妹達は元嫁が可愛そうだと俺を責める事で仲良く行くのではないかと思っていた。
しばらく思惑どうりに行っていたのだが、それも長くは続かず会えば喧嘩になり、お互い取り返しの利かない又、
どうする事も出来ない、お互いを傷つけるだけの言葉を交わす度、愛情も削れて行った。
そんな頃、同級生の山田と会った。前に会った時は漬物を売っていたが、その時は仕事を探していたらしい。
奥さんは何度も会った事があったが、いつも一歩下がって微笑んでいる。
会うといつも苦労話を自慢げに話すこの夫婦は、仲の良い夫婦に思えたが、二人の子供の事は
ほったらかしに見える不思議な夫婦にも思えた。
「土屋さん、またビリヤード連れてってください。」奥さんが言った。
「あー。俺いま結構ひまあるからいつでも良いで。行こう」そう言うと山田は日を決めようと言った。
そして行き付けだったアイゼンビリヤードに何度か行った。
その時に奥さんの後輩の久仁子の話題になった。誰か良い人は居ないかと。
ちょうどみっちゃんと言う連れがいて、気が合えばくっ付けようと言う事になった。
久仁子はエステで働いていた。キューを持ってデコルテ?の練習をしていたので
俺は可愛いけど少し変わった子だなと言うのが第一印象だった。
みっちゃんはえらく気に入った様子で誘っていたが、あしらわれた様子だった。
俺が離婚を前提に別居している事は皆に言っていないので世話役に徹するつもりだったが、
何度か会うにつれ、そんな久仁子に惹かれていく自分に戸惑いもあった。
ところが、車で元嫁と離婚話をしている時に山田夫妻と共に久仁子が横を通り軽く会話を交わした。
ある日、何かの会話中に元嫁が「あの子あんたに気があるんじゃないの」と言う。
おそらく俺の気持ちを悟ったのかもしれない。まさか、本当にそうなるとは思わなかった。
勇崎と飯を食いながら近況を話していた。俺を気遣ったのか、「カラオケでも行くか。
たまには発散せい!」と言う。そして「男同士じゃ色気無いな。誰か居らんのか?」
「。。来るかどうか解らんけど、ちょっと気になる子おるから呼んでみよか?」と俺は言った。
「おお?なんじゃそれ。呼べ呼べ」俺は来んわな。と思いつつ電話した。
すると、近くだったからかも知れないが、久仁子はあっさりやって来た。
久仁子の歌の上手さに驚きつつ、しばらく三人で歌っていると勇崎は「俺そろそろ時間やわ」
と、気を利かす。ただ、現状の自分がどうこう出来る身分で無い事もあり久仁子を家まで送る
事にした。マンションの下に着き「今日は来てくれて有難う」と言うと「楽しかったです」と言う
久仁子の笑顔を見た時、俺は久仁子に惚れている事を自覚した。
「もう遅いけど良かったら個室のラーメンの上手いビリヤード屋あるんやけど行かへん?」
「少しならいいですよ。」「よっしゃ行こう」
それが俺と久仁子の初デートだった。
そして、その帰り風呂を借りる事になり愛犬アンに御対面と同時に敵視むき出しで吼えられた。
俺は、久しぶりに人を愛し、想いが突然叶った様な喜びと同時に結ばれる事の無いであろうと思う
悲しみを感じていた。
久仁子は俺の事を何でも知りたがった。ほとんど質問攻めだったが不思議と何でも話せる自分がいた。
そして色んな事を伝えながら忘れていた記憶が蘇る。それを楽しそうに聞く久仁子が愛おしかった。
しばらくそんな日々が続いたが、お互いこれ以上惹かれ合うと別れが辛くなると思い早めに家に帰るようにした。
俺はもう誰とも結婚しないと決めていた。少なくとも妹達が大人になるまでは..と。

            久仁子の両親
その後、俺は仕事が終わると久仁子のマンションへと急いだ。
俺が転がり込んだ形だった。久仁子は風呂を貯め、ご飯を作ってくれた。下のコンビニで
焼き芋アイスを買い、風呂で一緒に食べる。風呂嫌いのアンも大好物の焼き芋アイスの為なら濡れても入ってくる。
ぷるぷると震えながらフガフガ言いながら食べるアンを見て二人で笑ったものだ。
遅くまで色んな話をした。お互いの記憶に残るように。いつ会えなくなっても良いようにと。
久仁子も色々苦労をしていたらしく、その時の俺が言うのも変だが、良い人と結婚して幸せになって欲しかった。
こんな言い方をすると遊びなのかと思われるかもしれないが、俺は本気で愛していた。
これが俺の矛盾なのだろう。でも、おそらく本当の愛とは、そう言うものだと思う。
愛があれば。努力すれば。そんな言葉は当時の俺には皆きれい事であり、現実は甘くは無い事を、又、
自分の出来る限界を感じていた。とても、久仁子を幸せに出来る状況ではなかった。
久仁子との一時は、山済みの問題を抱えた俺の現実逃避の甘い一時であり、久仁子と離れた瞬間に俺は
現実に引き戻され、どれも解決出来ないまま、時間が少しでも解決してくれるよう願っていた。
そんなある日、のぞき事件があり、違う階へ引っ越すかと言う話があった。
空き室の部屋を見に久仁子の両親が来ていた。「なおちゃん。ちょっとおいでや。親が会いたいって」と言う。
「げ。俺、何ていうて会うねん。」「うちの親大丈夫やで。全部知ってるから」「げ。うそ。」と言う事で、
たじたじの俺が行くと元気なマミーが「あらどーも。久仁子の母です。ヨロシクデス。」パピーは笑っていた。
とりあえず月並みに挨拶をしたように思う。
ただ、不倫関係にある俺にそんなに明るく接してくれる両親に違和感があった。
それもそのはず。実は両親にろくに説明していなかったらしく、普通に新しい彼氏と思っていたらしい。
ともあれ、とても仲の良い両親に見えた。初めてなのに前から知っているような、そんな遠慮させない
接し方で受け入れてくれたような温かさを感じ、俺はさらに罪悪感を感じていた。

      離婚の始まり

正式に離婚していない事と妹の事もあり何度か家に戻り元嫁と話し合ったが、いざとなると別れないと言う。
終いには、すべてを受け入れるから戻って欲しいと言い出され俺は困った。
妹達は俺を勝手だと責めた。
事の発端は、妹達との同居が気に入らないと言う言葉だった。
静香の悪さがエスカレートしていた事もあり、相手は、しだいに妹たちへのあたりがきつくなった。
そして、俺の保険の受け取りを妹達にしている事を責め、自分に変えろと言う。
元々相手との出会いは、俺に何かが有った時、妹たちに少しでもお金を残してやろうと入った保険の
担当者として来たのが相手だった。当然保険内容は一番理解していた。
「それなら新しくお前が受け取りの保険に入れば良いやろ。」と言うと、そんな余裕あるのかと責める。
しまいには、「何で、借金までしょって余裕も無いのに、言う事聞かない妹たちを面倒みなあかんの!
施設に入れたらいいやん!」と言い出す。
こうなってはもうお手上げだった。ただし、こう言わせてしまったのは自分だと理解していた。
結局、愛してあげる事が出来なかった俺へのストレスが相手を追い込んでいた。
ただ、当時の俺には色んな意味で余裕がなかった。仕事も金も家庭も。何より自分に。解っているのは、
しなければいけない事ばかり。そしてどれも満足に出来ない事ばかり。どれも自分が望んだ事ではないから。
俺は女を殴るのが嫌だった。しかし殴ってしまう俺が居る。昔、殴ってしまい相手の女の子は、
前歯を折ってしまった。そんなに強く殴ったつもりはなかったのだが、翌日真っ青に腫れ上がった顔を見た時、
男と女ではダメージがこんなに違うのかと驚き、二度とこんな思いはしたく無いと思った。
以来、自分が抑えられなくなるとその場から逃げる癖がついたが、相手に「逃げるんか!」と言われる事ほど
悔しい事は無い。そんな思いを毎回帰る度に味わい、家を出る。
自分でも何の為にこんな生活をしているのか解らなかった。ただ、俺が家を出ると妹達には優しくなる。
俺を悪者にする事で妹達と同情の気持ちがわいたらしい。
相手は、そんな状況を何とかしたいと俺の親戚や勇崎に相談し、俺は皆に家に帰り仲直りしろと責められた。
しまいには、女が居るのかとも疑われた。実際、久仁子と出会ったのはもっと後の事だったのだが。
何とかうまく生活できないか。相手に言わせれば、妹たちが言うことを聞かないと言う。
妹達に言わせればどうすれば良いか解らないと言う。
原因は俺の愛情不足なのだが二人の生活がないからだと相手は思い込んでいた。
それでも時々は仲良く円満な日もある。しかし些細な口喧嘩はさまざまな出来事を口に出し、俺にとっては
それを言ったら、どう仲直りするんや?と言うほど、ぼろぼろな状況を積み重ねて言った。

相手の親は一度別れて白紙に戻してくれと言う。俺もそれを望んだが相手の気持ちは割り切れない。
俺への愛と憎しみが交互に現れる。お互い離婚という結論を出し、離婚届を書き区役所に行っては、
やっぱり待ってくれと言いだし、また喧嘩しては書く。そんな事を何度か繰り返しお互い疲れていた。
いつしか俺が愛するのを待つと言う相手と反対に俺は別れを待つと言う変な状況に陥った。
結婚と同時に葬式つづき苦労続き、何もしてあげれないまま傷付け合いばかり。
明らかに俺に非があった。しかしどうしてやる事も出来ない。
お前が理解しろ。あなたが夫らしくしろ。そんな言い合いが絶えなかった。
もしあの時”変なおっさん”に会えていなかったら別れられずに居たかもしれない。

        一期一会と変なおっさん
そんなある日、店を閉め家に帰れず飯でも食べようと歩いていると突然知らないおっさんに声をかけられた。
「にーさん!すいません!」「は?」「変な事言いますが、この携帯に出て拾ったと言うてくれませんか?」
「はあ?」「事情は後で話しますさかいほんまにたのんます。」と、必死に頼まれた。
言われたとおり掛かってきた電話に主に伝え切ると「にーさんすんません。ありがとう。良かったら一杯
おごらせてもらえまへんか?」と言う事で、焼き鳥屋に入って事情を聞くと、会社でトラブルがあり、
その為に今まであっちこっち走り回ったらしいが、解決には至らず、上司に報告出来ないらしい。  
結果、苦肉の策が、携帯を落としてしまい、連絡出来なかったと言う事に俺は手伝わされた訳だ。
そして、会社の愚痴を聞かされ、さらに家庭の愚痴へと発展していったが、暇な俺には、良い暇つぶしだった。
愚痴ばかりで申し訳ないと俺にわび、真を突いて来た。「にーさんもなんか悩んでますノンか?」
「え?」「さっきからわしの話ジーっと聞いてくれて張りますけど、なんか寂しそうですな。」
「そーですか?ま。僕もいろいろありますわ」「良かったら聞かせてくれませんか?ここで会ったのも何かの
縁ですし、他人のおっさんですから何でも言いやすいでっしゃろ?」と言うことで、結構細かい事まで話した。
確かに、俺の事を何も知らないおっさんだから、どう思われても構わないと言う思いからか、不思議なほど
本音で素直に話せた。すると意外な言葉が飛び出した。「にーさん。何悩んでますのん。別れなはれ!」
俺は涙が出そうだった。「私は見合い結婚で、まあいいかってなもんで結婚したんですが喧嘩するたび後悔し、
にーさんみたいに何度も自分に言い聞かせました。結婚したんやから。責任やからと。いつか子供が出来たら
愛情も沸いて良い家族になるやろうと。でもね結果は悲惨ですわ。今のわし見て下さい。さっきも言いましたが
嫁とは会話も無い。子供たちには駄目親父とばかにされ会社ではこき使われ。挙句の果てに今頃離婚してくれと
言われてますねん。何の為に堪えて来たのかと。もし、やり直せるならあの時、絶対別れてます!」「...」
「にーさん。別れる奴って無責任やと思いますか?」「違いますか?」「離婚ってもの凄くパワー使いますよ。
もちろん自分も相手も親、親戚がいますし。逃げる奴は簡単かもしれませんけど。」「確かに。。」
「私がにーさんの親戚かその友人やったら同じ事言うたかも知れませんが、何も責任無い一人の男として
言わせてもらえば、絶対別れて下さい。」「...」「幸い子供さんも居ないならお互い若いんやし相手も、
今ならにーさんよりもっと自分に合った相手に出会えるかも知れんし、もし、やっぱりお互いが良かったと
思えばやり直しも出来ます。でも、別れるのは、今しか出来ませんで。仮にしばらく仲ようなっても又、
こんな状況なってその時、子供がいてたら、又は、年取ってしまってたら。わしみたいになってほし無いんですわ。」
「僕もそう思ってはいるんですが、どうすればうまく別れれますか?」
「うまく別れよう思うたら無理ですわ。相手がにーさんの事嫌いやって言うなら別ですが。めっちゃ
悪者になってあげるしかありませんな。」「悪者ですか。」「そう。鬼になるくらいの気持ちがなかったら、
泣きつかれたら情に流されますわ。相手の為でもあると、自分に言い聞かせなあきません。ただ、私には、
それが出来なんだ。何度も後悔しました。もっと別な人生があったんちゃうかって。」
「...ありがとうございます。何か決心つきました。」
「もしかしたら、にーさんの無くなった親御さんがわしに伝えさしてるんかも知れませんな。
お互い名前も聞かず別れましょう。もし、わしに話しがあったら、ここに電話ください」
と、最後に携帯番号が書かれたメモをくれた。
その時、親父が死ぬ前に言った「一期一会って意味解るか?」の言葉が俺の心によみがえった。
だから、あえてメモは捨てた。一期一会の意味を知るために。..
親父が下呂温泉病院に入院して間もなく、俺が病院に向かうと別館から出て来た米倉先生と出合った。
米倉先生は、長良で開業している理容師の先生で、親父の行きつけの先生であり、全理連中央講師と言う
肩書きもあり、ハーフの様な顔をしていて特に中部では有名な理容師の先生で、俺が理容師として修行するさい
名古屋の店を紹介して頂いた先生である。又、名古屋の店をやめた時、俺を一時預かってくれ、東京の店に
紹介してくれたのもこの先生であり、20才の頃付き合い「結婚して」と言われた彼女の父でもある。
二人の美人姉妹の父であり長女が一美(ひとみ)次女が一枝(かずえ)先生は一(はじめ)一番が好きな人。
妹の一枝ちゃんが腰を痛め治療で下呂温泉病院に来ていたらしく丁度退院して帰る所だったらしい。
しばらく一美の話には触れず世間話をし、親父が癌で余命が少ない事を伝えると見舞いに来てくれた。
お互いこんな偶然があるとは。と驚いていた。
そして先生が帰ると俺とあきちゃんに、「一期一会って意味解るか?」と親父はつぶやいた。
あきちゃんは、「一生に一度出会う又は、一度しか会えなかった人の事やないんか?」と最もな回答をした。
「お前は?」と聞かれ「そうなんちゃう。」と答えたが、親父は黙っていた。
親父の聞きたい答えは解っていた{一つの大事な時期に現れ出会う。そしてその後、会うべき時にもう一度出会う}
不思議な縁のある人がいる。それが、親父の思う一期一会であり俺に求めた答えだったのだろう。
親父にとって正論は通じない。当たり前も通じない。絶えず物事には意味があり、それを自分で考え答えを出せ。
言葉に惑わされるな。自分の頭と体で考えろ。皆がそう言うから正解とは限らない。そう言う人だった。
魚好きな親父は鮎の事をあいと言う。ベランダには鯉がおり、毎日こいを見てあいを味わえれば幸せだと言っていた。
一々こじ付ける言い回しや、げんかつぎ、勝手な解釈と、矛盾な事を堂々と言い、自分の体で考え理解しろと言う。
色々とややこしい親父ではあったが、やはり同じDNAのせいか、少しずつ共感できる自分に驚かされる。
教えられた答えが、必ずしも正しいとは限らない。一つとも限らない。結局、答えとは、誰かが決めたものであり、
ルールみたいなものかもしれない。人生の中の多くの事柄は、数学のように正しい答えが出る計算式は無く、
最も困るのは、幾つもの答えがあり、その答えが時間と共に変化し、元の時間の答えまで変わる事もある。
つまり自分で答えを選ばなくてはいけない。それが判断力だろう。しかし度が過ぎると自己中でしかない。
だから一般的に、そして客観的に答えを選ばなくては社会人ではない。それでも自分の感じる答えを探す事は楽しく、
勝手な解釈は、想像力と説得力がいる。強制や無理な主張をしなければ、ある意味本人の自由である。
したがって、俺にとって宗教ほど矛盾な物は無いと思っているのだが、親父は神を、母は、キリストを信じた。
などと哲学を語る俺は、親父が勝手な哲学を語る度に言い返していた。言葉のゲームのような物だった。
ただし俺の口から出る言葉は、あえて正論を短く親父に答えた。「つまらんやっちゃな」と思ったに違いない。
親父は何時も「何でそう思うんや?」と俺に問いかけた。
俺自身そう思って言っている訳でもなかったが、親父の屁理屈にうなずくのが嫌だった。
それでも「大人になったらお前にもわかるわい。俺の言ってる事がな」と笑う時もあったが、大抵最後は
「しゃらくせー事いいやがってこのガキが!」と怒鳴られる方が多かった。
鮎はいつでも食べれる魚と思っていたのと同じくらい、親父みたいな大人が普通だと思っていた。
社会人のまじめな人の方が少ないのだろう思っていた。
今にして思えば、俺は親父が好きだったらしい。もっと色々語りたかった。今なら素直に話せるかも。
と思っていたのだが、最近夢に親父が出てきたが、やはり俺と親父は口喧嘩していた。
目が覚めたとき何故か笑ってしまった。そして、俺と親父はやっぱりこうでなくちゃな。と思えた。
    
            離婚
    
      
         
ある日、俺と勇崎と久仁子で中華を食っていた。奥に勇崎、階段を背に俺と久仁子が座っていた。
会話の途中、勇崎が言葉を詰まらせ口を開けたまま青ざめるのが解った。
振り返ると相手が階段を上ってきた。俺のシーマを見て上がって来たらしい。
相手は状況を理解し「土屋の嫁です!どうも!」と、久仁子に詰め寄った。
勇崎の後輩と言う事で話を合わせ、相手を連れておろすと、「ん。あのこ。くにちゃんってこやん!
山田さんの後輩の!」と真を突かれた。さすがに開き直って「今更関係ないやろ!」と吼えたが、
正式に離婚していない以上事態は最悪になった。
しかし、それが相手にとって離婚を決断させる事になり、状況は急展開していった。
ある日、久仁子のマンションの下に車を止めると横に車が止まり助手席の窓から相手が声をかけた。
「今から彼女の家へお帰りですか?」と皮肉る。運転手の清水という女の子は、してやったりという顔だった。
「それが何か?」と言うと「まだ離婚してない事忘れんとってや!」と言い、去っていった。
山田の嫁に住所を聞いたのだろう。浮気現場を抑えてやったと言うような勢いだった。
久仁子に直接電話をかけ「うちの旦那は大変やで。それでも良ければあげるわ!」と言われたらしいが、
気の強い久仁子がどう対話したかは想像したくない。
その後、調停に呼び出される羽目になったが、調停員に説明し浮気が原因での離婚で無いことは証明され、
財産はなく、借金を分ける事も出来ない事から引越し費用を持つ事で和解離婚となり、相手は速やかに家を出る
よう言われ結果的には、きれいに離婚できた形になった。しかし、それで火が付いたのか、
家に戻ると、俺の部屋には、カーテンをはじめTVも布団も無くなっていた。驚く事にエアコンもはずして持って
行ったらしい。最初に困ったのは、電球が無くなっており真っ暗で何も見えなかった事.。そして、
冥土の土産とばかりに家賃をはじめ電気、ガス、水道などの一切を延滞しており支払いに追い討ちを食らった。
それでも、悲しそうに去られるより俺にとっては良かったと思えた。
どうせなら思いっきり嫌われてやろうと、持っていった座椅子は俺のだから返せと言った。
後日、江坂で待ち合わす事になり愛車のシーマで待っていると、セルシオを運転して現れた。
俺が車好きなのを知っている相手はしてやったりって所なのだろうが、高い車なら何でも良い訳ではなく俺の
こだわり、好み、愛着は理解していなかったのだと改めて分かり残念に思えた。
座椅子を受け取り「エー車やノー。彼氏は金持ちらしいな。」俺は羨ましいフリをしてやった。
「大した事ないわ」相手は言う。俺は心の中でハイハイと言っていた。
「じゃーな。」と俺が言うと「新御堂どこでUターン出来るのん?」と言う「途中まで付いて来たら?」と伝えた。
そして新御堂に入り、ぎこちなく走るセルシオに窓から手を振り、俺は自慢のターボに火を入れた。
一瞬でセルシオはバックミラーから消え去り、相手を見たのはそれが最後になった。

 

    
      
         

 

 

 

 

       

 


h         生い立ちの樹

第一章 1 庄内
19XX
12月25日クリスマス。4歳の俺は庄内のおばの家で誰よりも早く目が覚めた。
枕元に置いた片方だけの靴下に何も入ってないのを見、慌てておばを起こしに行った。
「ジュークママ!来てない!」
取れかけのやたらとでかいまつ毛。化粧も落とさず、歯軋りを立てるおばに詰め寄った。
「ジュークママ!来てない!」
何度ゆすっても起きない。何度か目に
「ん!なんなん?!」
「サンタ来てない!」
「あほか!プレゼント買ったったやろ!」
「ちがう。サンタが来てない」
「そんなもんおるか!もう起こしな!!あふぉか!!!」
寝ぼけたおばは最強に柄が悪く、なぜ怒られたのか理解できなかった。
ただ、眉間にしわを寄せて怒る女が嫌いになったのはその時からだ。
母の姉であるおばは、おばと言っても当時20代のお姉さま。
(十三のママ)それを正しく言えず(ジュウークママ)となったらしい
いわゆる第2のママ(チーママ)である。
何時から何時までおばとごんちゃんと庄内の家に居たかは覚えていないが、母は俺を残し男と旅に出た。
何日?何週間?何ヶ月?その間の事はあまり覚えていない。
始めて見る男の車の後部座席に俺は居た。助手席の母が運転席の男と話していた。
俺を一緒に連れて行くと言う母に、だめだと男に言われ涙目の母を見てるのが嫌で、
俺はお気に入りのおもちゃで遊んでいた。
バロム1のボップ。携帯電話ほどのだ円形をした青と赤の光って音の出るおもちゃである。
番組の中でそれは探知機として危険を知らせてくれ、変身時にも必要な重要なアイテム。
しかも、それを投げて声をかけるとスーパーカー(マッハロッド)になる優れものだ。
今のおもちゃとは出来も違うが、当時の俺にはすごい物に思えた。ただ、
変身は出来ず投げてもマッハロッドにもならず、ボップと俺の心を傷付けた事を除けば...
男と母は、幼い俺には話の内容を理解出来ないと思っているらしい。
おばの家の近くで車は止まり母は俺に「ジュークママを呼んできて。ママここで待ってるから」
と、俺を見送った。男に急かされてる事を承知で母は俺を何時までも見送った。
俺は心の中で「早く行っていいよ」と言っていたのに。
ゆっくりおばの家に着き「ママが呼んで来てって。」「えーあかんって言うたのに!」
「どこにおるん?」「シキシマパンの前」「何でそんな遠いとこに?」
「寒いから中入っとき」そう言っておばは母の元に急いだ。
俺は心の中で「もう居ないのに」と言っていた。
中でごんチャンがコタツに座っていた。壊れてしまったのか、ボップが光らない。
「どうした?付かんのか?」「どれ。貸してみ。」と俺をあぐらの上に座らせ+ドライバーで
ボップを治してくれた。電池を入れ替えてくれただけだと理解できたのは何年も経ってからだったが、
その時のごんチャンは、俺にとってすごい人に思えた。
おならをする度「ごめん!」と渋い声で言う変な癖?がある。何故ごめん?何時も思っていた。
マー君はごんチャンを嫌っていて(あいつは最低や!)とよく言っている。
ただ当時の俺にとっては、口数は少ないが優しさの伝わる好きなおじだった。
   2  大阪
幼い頃、服部で母と住んでいた。よく家の前で一人で遊んでいると近くの綺麗なお姉さんが
(何時も一人で遊んでるね。家においでよ)と声をかけてくれる人が居た。
静かで優しそうなおねえちゃんだった。ただ、極端に人見知りな俺は何時も断った。
するとお菓子をくれたり、一緒にしゃがんで話しかけてくれた。
実はそのおねえちゃんが声をかけてくれるのが嬉しかった。
しかし、一度もその人の目を見て話す事無く首を縦に振るか横に振る事しか出来なかった。
よく母にも俺を預からせてくれと言うようなことを話していた。
今にして思えば、そのおねえちゃんも寂しかったのかもしれない。
今の俺なら喜んで付いて行っただろうが、幼い俺はそれほど純情だったらしい。
気がかりなのは、俺がその人の事を嫌いだと思わせたのでは無いだろうか。と言う想い。
時々その人のことを思い出す。2番目の母が消えてから...。

   3  いとこ 婆ちゃん 苦手なもの
当時の俺は恐ろしく人見知りで友達を作るのが苦手だった。
いとこ達の中で俺は兄であり。いつも真一とリナが俺に付いて回った。
「兄ちゃん次何する?」それが二人の口癖だった。
次いで和美も加わり直美はまだ赤ちゃんだった。
俺は何時も遊びを考えなければならず、それでも俺を慕ういとこが可愛かった。
ただ、何時もグループで動く俺たちは他の子達と仲良くなれず意地悪もされた。
だからまた身内で遊ぶ。
困ったのは一人の時だ。元々一人っ子のママっ子。他の子に混ざる事が出来ない。
何時もTVを見るか、おもちゃで遊んでいた。
ある時期俺はお婆ちゃんと十三で暮らした。婆ちゃんは厳しく、時々意味不明な言葉で話す。
その正体が韓国語であった事を知ったのは14歳の時だった。
絶えられなかったのは冷蔵庫の匂い。開けた瞬間漬物、キムチの悪臭に気を失いそうになった。
そのおかげで俺は漬物恐怖症になり、スーパーの漬物売り場を歩くのも困難だった。
何時も、誰も信じてくれないのだが漬物に関しては、決して俺は食わず嫌いではない!
我が家の人々は皆、漬物好き。また、コリ。カリ。っとうまそうに食う。
俺も食べたくてカリ。途端に匂いが鼻を突き、吐いてしまう。
見かねた母がもう食べんで良いと言う始末。でも食べたいと言うと(キュウーリのQちゃん)
なら食べれるんちゃう?と言う事で何度かチャレンジしたが無理だった。
それどころか、逆に食感まで苦手になり温野菜や、炒め物にしてもだめ。さらに、
漬物になりそうな野菜の全てを苦手になり最悪な好き嫌いの多いガキになってしまった。
好き嫌いを許さない婆ちゃんもさすがに諦めていた。それ以来俺は一度も漬物類を口にした事は無い。
さらにその後、給食、住み込み先の食事でひどく苦しい思いをする羽目になるのだった。
ある時一人で遊ぶ俺に見かねて婆ちゃんが「外で遊んでき!」と言われ、
「一人で?」「入り口の家に子供いてるやろ。家行って‘遊ぼって’言うといで。」
「女の子やん」「関係ないわ!行ってこい!!」まー怖い婆ちゃんだった。
しぶしぶ玄関で名前も知らないご近所さんに
「遊びましょ」と叫んだ。これまた中から婆ちゃんが出てきて
「どこの子」と不振な子の俺に言った。「奥の2階の家」
「又今度ね」と、ドアを閉められた。(ほらみろ)と思いながら帰って報告すると、
「もう1回言ってこい!」「直樹です。友達になってって言うて来い」
俺は正直もう嫌だと泣きそうだった。
しかし、言い出したら聞かない婆ちゃんの性格は子供ながら理解していた。しぶしぶ玄関で
「遊びましょ!」もうやけくそだった。「また来たん!」
「直樹です。友達になって!」「ん?」おそらく俺は泣きが入ってたと思う。
「そうか。ほな、あがり。」奥で恥ずかしいのか怯えているのか、立って俺を見る女の子が居た。
名前も顔も覚えていないが、お互い名前を言って、初めての友達が出来た。
友達かそうで無いかは、互いの名前を呼び合えるかどうか。名前とはすごいものだ。
その時婆ちゃんにそう教えられた思いだった。
ただし今にして思えば結局、外で遊んだ訳ではないのだが。。。
そんなこんなでとにかく俺は友達を作ると言う行為が苦手だった。
変に相手が(自分をどう思うのだろう)と思ってしまう。
そもそも一緒に遊んでいれば勝手に友達になるのにと言う観念が無かった。

    4    庄内の借家
その後、母と俺は庄内のおばの近くで2階の借家に住んでいた。
元々、十三の店の裏に俺の部屋を作ってくれると言っていたので楽しみにしていたのだが...
裏のアパートにマー君と彼女が住んでいて、裏の窓から明かりが見える。
母がスナックに働きに行ってる間、俺は母の服を抱いて待っていた。
電気を消すのが怖く何時も光々と点けていたので電気代は高かっただろう。
ある日、あまりに俺が泣いているからと心配し来てくれたマー君の家で彼女と三人で寝た。
その時初めて黄色い豆球の光の中で寝たのを覚えている。
俺にとって黄色い豆球は、電気を点けたり消したりする時の邪魔者でしかなかったが、
こう言う時に使うのかと感心した。
だが俺は、薄暗くどこか寂しい豆球の黄色い明かりが好きにはなれない。
母が帰るとよく土産を買ってきた。そしてそれを食べ、ベットで子守唄を歌ってくれた。
「.....三輪車」なんという歌かは覚えていないが、3番まである歌だった。
可愛そうだと思われたが、俺は結構その暮らしは気に入っていたように思う。
何時もそばに居れない分、母は温かくそんな母を好きな自分も好きだった。
そして、我慢すると良い事がある。という事と同時に何でもない時間の大切さを覚えた。
ただ、母が睡眠薬を使うようになり様子は変わっていった。
 
    5     野田小学校
小学校入学。何故か俺は、おばの家からランドセルをしょって母に見せたくて家へ走った。
途中、皆が少しだけ偉くなった俺を見ているような、そんな気になったのを覚えている。
2階の借家のガラス戸を何度も呼び叩いた。悔しくてガラスを割ってしまいそうなほど。
だが、ついに母は出てこなかった。また睡眠薬を飲んで寝てるのだろうとあきらめたが、
実はあの時、家に居なかったのでは?と思うようになっていた。
母が死ぬまでそのことを聞くことはしなかった。
聞けば母を許せないかもしれない。もしくは答えを信じられないかもしれない。
結局、母を責めるだけだろう。俺にとっても何も良い事はない。
小学校3日目。教室でクラスの男子と追いかけっこをしていた。
(友達になれるかもしれない)そう思っていた。ところが、俺の前でこけ、怪我をして泣いた。
皆が俺を見ていた。先生が来て「どうしたの?大丈夫?」その子は泣いていた。
「なにしたの?けんか?」俺は何も言えなかった。(勝手にこけたのに)心で言ったが。
「あら。保健室行きましょう」と、その子を連れて行った。
とりあえず、気まずい1日を終え先生が皆を校門まで見送ってくれた。「先生さようなら」
まさかそれが本当に最後のさようならになるとは露知らず。。。
校門を出て家に向かって歩き出してすぐ「直樹」と若い男2人に声をかけられた。
「だれ?」「パパの知り合い。そこの車でパパ待ってるから」と言われ車を見ると、
後部の窓からニヤリと笑った親父が居た。「パパどうしたん?」「迎えに来たんじゃ」
「ママは」「...。」「今までママとおったやろ?今度はパパの番だから一緒に行こうな」
「ん?そうなん?」「そう。そう」「ママは後で来るし」「そか。じゃーパパと行く」
「よし!行こう」車は、そのまま岐阜に走った。そして俺は大阪の生活を失った。
母にしてみれば、さらわれた思いだったと思うが、その時の俺には理解は出来ていなかった。
  第2章 岐阜   1  第2の母
目が覚めると隣に強力な化粧に香水ぷんぷんのおねえちゃんが俺を抱いて眠っていた。
その状況が理解できず、恐ろしさと恐怖で俺は漏らした。カラフルな妖怪に捕まった気分だった。
2番目の母とのはじめての出会いは、うろたえる俺に笑顔を向け、何も言わず
俺のパンツを脱がし、情けないチンコを洗ってもらい布団を干してもらう事から始まった。
化粧も落とし落ち着いた服に着替えたおねえちゃんは、とても優しく可愛い人だった。
岐阜県関市の家は大きい2階建ての家だった。家の前は交通量はそんなに多くないが広い道で、
大きな、上品な家が並び、すぐ先には小さな山や川があり環境の良い所だった。
家の前には外車がずらりと並び、若い衆と呼ばれる男が絶えず2人以上いた。
今思えば事務所を兼ねていたのだろう。
おねえちゃんに手を引かれ応接室に入ると親父と若い衆達が「起きたか」と笑顔で迎えた。
「まだ寝小便直ってないのか?」と言われ恥ずかしい思いをしたが、俺は心の中で
「カラフルな妖怪に捕まったからだ」と言っていた。すると、そのおねえちゃんが、
「横におねえちゃんおったからびっくりしたんやナー。」と真を突いていた。
ただ、俺によほど会いたかったのか、欲しくてたまらない新しいおもちゃを手に入れた
子供のように俺を放そうとしないおねえちゃんに、母とは違う、でも心地いい愛情を感じた。
ママっ子の俺が母の居ない寂しさを感じず、おそらくおねえちゃんと離れる事はつらい。
そんな存在になっていった。
        2  一番裕福な時期
親父はとても優しかった。そして毎日色んな所に連れて行ってくれる。
自然が好きな親父は、きれいな公園や、山にドライブ、そして何より鮎釣りが好きで、明け方
に起こされ、おねえちゃんは何処に行くにも弁当をつくって短パンで張り切っていた。
そんな’親子三人仲良く’な雰囲気がとても嬉しかったものだ。
当時24歳だったと思うが、今で言うギャルママってとこか。
ハイキングと言えば、しゃれたバスケットにサンドウイッチ、水筒2つにコーヒーと。
手で絞ったオレンジ・ジュース、大きなつばの帽子にサングラス、長めの透けるようなワンピース
とかなり上品でおしゃれなおねえちゃんは、俺にとって自慢のママ母だった。
皆、映画が好きで00曜ロードショーの時間はお茶とケーキでTVを見る。
子供の俺には解る訳ないとよく親父は言ってたが、子供の俺に見せる親父の方が意味不明だった。
それでも親子三人が無言で見るその空間がとても好きだった。
我が家の、いや、親父とおねえちゃんの生活スタイルは映画の1コマ1コマから影響されている。
時には洋画の、時には恋愛、家族邦画の、そして何より、やくざ映画の。..
今にして思えば、俺にとっても親父にとっても一番家族らしく、また、一番裕福な時期だった。
釣り以外の日はまず、朝10時には三人で喫茶店でモーニング。そこで本日の予定を立てる。
岐阜の喫茶店はモーニング競争が激しく・カツサンドに卵にサラダにヤクルト・などあたりまえ。
価格は250円~300円で、後1品増えるか、サンドをひねるか、味を変えるかが店の見せ所。
ただし、コーヒーor紅茶にかぎる。その為、俺はその頃からコーヒーを飲まされる羽目になった。
おかげで、コーヒーの無い生活はありえなくなり、大量に砂糖orシロップを入れて飲む癖がつき、
一定の甘さにしないと味の良し悪しが判らない変なコーヒー通になってしまった。
それでも、コーヒーの味にはうるさく、誰よりも長く、色んな店でコーヒーを飲んでおり、
誰が何と言おうと俺はコーヒー通である。と思う。
関市唯一の豪華なサウナ;サンジェルマン;を銭湯代わりにし、当時レディースサウナは無く、
俺と親父だけ3時間ほど入る。入り口に刺青お断りと書いてあるにも関わらず中はその筋の人が多かった。
中はフリードリンクで、色んなジュースを混ぜるのが楽しかった。
ちなみに俺の研究によると、当時ファンタ・アップルと言うのが在り、それとスプライトとコーラ
4:3:3の割合で混ぜるのが一番うまかった。
あと運動器具室、寝室、TV鑑賞室などがあり、昼行った時などに食べるラーメンが又うまかった。
間違いなくインスタントの札幌一番の味噌だが、キャベツに味がしみ込み、卵が絶妙な硬さ。
おかげで野菜嫌いの俺が、お好み焼き以外でキャベツを食べれるようになった。
そして、おねえちゃんはその間に家で夕食を作り、若い衆が外車で迎えに来る。
月に何度かは高そうなステーキハウスに行った。俺に食事のマナーを教える為らしく、
箸は使わせてくれない。しかも、(解らなければ見てまねをしろ。同じ物を同じ順番で食え。)
それが親父流の教育らしい。ただし、俺だけハンバーグステーキだった。
何週間、何ヶ月居ただろう。今思うとその間、俺は学校に行っていない。

         3 母との別れ
何時までもそうもしていられない。
と言うところだろうか、一度大阪に帰り転校の準備をする事になった。
ただ俺には、母と親父、母とおねえちゃん。どちらも選べない。それでも母は俺の中で特別。
判っている事は四人で住む事は出来ないという事。そして、母と離れる事はありえなかった。
それでも親父の「順番やから」「パパと住む番」と言う言葉は、俺に大きな選択を迫られた。
子供にとって母は特別であって、それでも父も大事なもの。自分に優しくされれば尚の事。
子供にとって本能なのか、不利な方に味方したくなってしまうもの。だと、俺は思う。
その時の俺にとって不利な立場は親父に思えた。また、俺を必要としてくれている様にも思えた。
登校日初めてランドセルをしょって母の家の戸を叩いた時やはり居なかったのだろう。
もしかしたら、俺は母にとって邪魔な存在なのでは?なら、親父の方に来た方が母の為にも
なるのでは?幸いおねえちゃんが居れば寂しくないかも。そんな気になっていた。
「パパ。又いつかママと暮らせる?」「あたりまえ。順番やから少ししたら又ママと暮らせる」
「でも会われへんの?」「冬休みには会えるぞ」「じゃーパパとおる」
そして、俺と親父とおねえちゃんと三人で一度大阪に帰える事になった。
最初に親父とおねえちゃんが母とおばとマー君たち高見家と話をしていたと思う。その後、
俺と高見家との話し合いだが、おばは、親父の方に行くことを促しているように思えた。
「直樹、お前が思った方にしいや。ママにはいつでも会えるんやしな。」
最初母と会わせてくれなかった。母はずっと泣いておりその姿を見たら俺の決意が変わると
心配したのだろう。7歳の俺に決めろと言うのもこくな話。ただ、皆俺の事を思っての事だと
わかっていた。こうしろとは言えず、又、母も行くなと言えず、「順番やからパパとこ行く」
俺はそれしか言えなかった。母は泣き崩れ、皆、のどから出掛かった言葉を涙に流しているのが判る。
お姉ちゃんも泣いていた。誰も何も言え無い。なぜか俺も泣いていた。
今にして思えば7歳のがきが何故そこまで皆の気持ちが判ったのか。
おそらく、皆、俺の事を大切に思ってくれていた事は本能で感じていたのだと思う。
後で母に聞いた事だが、お姉ちゃんになついていた俺を見て、親父と一緒に行った方が俺の為だと
思ったそうだ。ただ、俺は心の中で「行くなと言って欲しかった。。」と言っていた。

第3章 新たなる岐阜での生活  1 初めてのシュークリーム 

しばらくの間、関と言う町で暮らした。
関の孫六や、フェザーなど刀や刃物が有名で近くには野口五郎の実家、喫茶店もある。
家の並びにお菓子屋がありそこの息子が俺と歳が近かった。
たまに遊んだ記憶がある。そして道路を挟み迎えの家はお屋敷と言う体だった。
そこの娘も歳が近かった。三人で遊んでいると、その娘の母がきて
「シュークリーム作ったんだけど、美味しいかどうか分からないから食べてくれない?」
と言った。今思うと、なんと上品な誘い方。よほどの人だったであろうと思う。
俺は人に何かをあげると言われたら、欲しくても何度か断るよう教えられていた。
それが遠慮であり礼儀だと。貧乏人と思われるな!貴全としろ!ケツをかかれるな!
と、意味不明な事を教える親父は俺を上品でこだわりのある男に育てたかったらしい。
その教え道理「ありがとうございます。でもいいです。」俺は言った。
その娘の母は困った様だった。すると、菓子屋の息子が「俺たべたい。」と言った。
その娘の母はとても嬉しそうだった。(おいおい親父!話が違うぞ!!)俺は思っていた。
俺は悔しくて菓子屋の子に「何度か断らなあかんねんで!礼儀やぞ」と怒った。
その娘の母は苦笑いをして、「食べてくれると嬉しいけどだめ?」と俺に言った。
俺も言った手前、引けない。何処で折り合い付ければ良いのかが分からなかった。
「せっかく作ったから食べてくれると助かるんだけど。。」助かる?
それなら助けてあげなきゃ。俺はこれで(はい)と言えると思った時に、菓子屋の子が
「食べたくないなら俺が食べたるぞ。」(おいおい。)俺はあせった。
でも、その娘の母には見透かされていたらしく、「三人にたべてもらいたいの。」
思わずうんと言っていた。気の回る素敵な母だった。
映画に出てくるような白く大きな家だった。門を入ると中庭まで在った。外も中も洋風で
きれいな大きなリビングに招かれソファーに座っているとジュースが出てきた。
そして、お皿に大きなシュークリームをいっぱい乗せてテーブルで分けてくれた。
「どーぞ。」「いただきまーす。」
一口食べて「ん!?」俺は想像を裏切られ頭の中が真っ白になった。
菓子屋の子は「おいしい!!」と万遍の笑みだった。その娘の母が不安そうに俺を見た。
「お口に合わない?」「んーん。おいしいけど。。」「けど?」「白い。。」
俺はどうして良いか判らなかった。そのシュークリームの中身はホイップだった。
俺はホイップクリームのシュークリームなんて知らなかったし、シュークリームと言えば
カスタードだと思い込んでいたので俺には偽物を食わされた思いだった。
俺は、とにかく‘変子’で少しの違いに妥協と言う事が出来なかった。たとえば、
気に入ったおもちゃが在ると、まるっきりそれで無いと駄目なのである。似てるから、
同じキャラクターだからと言われてもそれは要らない。
アニメの主題歌のレコードを買ってもらえば歌手が違う。おまけに台詞が入っている物もあった。
当時は多かったが、俺にとっては許し難い偽物だ。「ちがう!!」そう言っては周りを困らせた。
又、当時、札幌ポテトが初めて出てCMでやっていた。買ってきて!と、おばに頼んだら、
さつま芋のスティック状のお菓子を買ってこられ激怒したら「嫌なら食うな!」と怒られた。
わがままと言えばそれまでなのだが、俺はこだわりだと思っていた。
おそらく、自分がわがままだと自覚のある子供は居ないだろう。
「あー。ホイップクリームは嫌い?」「嫌いじゃないけど..不思議」「じゃあ..」
「おいしくない..?」「おいしい。」「よかった」「じゃあ今度はカスタードで作るね。」
ほんとに良い母だった。娘も上品でニコニコしていた。
「おかわりは?」「はーい」「だから、何度か断るのが礼儀!」
「:食べてくれると助かるけど..。」「じゃーいただきます」
俺は、そのおかげで少し違う物でも別物として試す価値がある事を覚えた。
今思えば、うざいガキだったと思うが、困った事に俺は何年もそんな変な遠慮がちなガキだった。
 
         2    転校

しばらくして、長良と言う町のマンションに引っ越した。鵜飼で有名な岐阜の名所だった。
岐阜城のある金華山の下に長良川が流れ長良橋の周りは旅館で埋まっている。
春には川沿いを桜が覆い、夏になると各旅館の鵜飼舟で長良川は埋まり、盛大な花火を打ち上げる。
信長の野望‘天下不武’の足がけ城下と言う事もあり、大名気分を味わいたいのかもしれない。
清水コーポラスD-5
5階建ての5階だった。当時、その辺りでは一番立派なベージュ色のマンションだった。
ただし階段。結構きつい。1階には飲食店が並んでいた。
左角に喫茶店、隣が中華や、その隣はよく店が変わる。
その町でエレベーターが付いているのは旅館だけだった。と思う。
しばらくして川沿いに岐阜グランドホテルが建ったのが唯一の洋風旅館?である。
部屋に当たる2階がA、3階がB...と、つづく。
屋上は開放されていて、よく親父とキャッチボールをした。とり損なうと下に落ちては
車を傷付けたが、親父に文句を言う人はいなかった。
月に2度‘こう’と呼ばれる麻雀の日があり大勢家に来た。
親父の舎弟たちと、おねえちゃんは、接待係りとして忙しく、俺は親父の寝室から出るなと言われた。
さすがに朝までジャラジャラ、ワイワイうるさく、親父とおねえちゃんは俺に気使っていたが、
俺は、そのにぎやかさが好きだった。よく俺の部屋をのぞき小遣い銭をくれる人もいた。
好きなTVも見れるしお菓子もあるし自由で嬉しかったのだが、うるさくて眠れないのかと心配された。
2年の時に大きな台風で長良川の堤防が崩れ地域の広い範囲で床上浸水で水没したが
その時の親父の勝ち誇った顔は、組内でもかなりの敵を作ったに違いない。
ともあれ我が家の被害は車だけだった。その時だけはマンションの有難みが分かった。
前には大学のグランドも在り横はいちご畑。斜め前にはぶどう園。眺めも空気もよく水がうまい。
そこから5分ほどの所に岐阜市立長良小学校がある。そこが新しい学校だった。
とりあえず、知らない子供だらけの学校に行くのが嫌で仕方なかった。
ただでさえ恥ずかしがり矢だった俺にとって最大の関門だった。
1-2俺は岩井先生に紹介され席に着いた。俺は髪の毛が茶色く長めの7:3関西弁。
当時大阪はその辺の人になじみなく、TV番組にも大阪はほとんど出てこない。
もちろん漫才も、さほど人気はなく(おもろい夫婦はやっていたと思うが。)そのため
大阪弁を話す俺は珍しい生き物に思われたらしい。
そのため皆から大阪人と呼ばれた。ただし、宇宙人のいとこみたいな意味あいだった。
それでも逆に友達は増え楽しかった。しかし、親父の教えは男なら番長になれ。負けたらいかん!
この教えが俺をややこしくした。おまけに親父の子分たちの在り難い?ご指導も含め。
困った事に(あしたのジョー)が大好きだったおねえちゃんも否定しない。
「ジョーの何処が好きなん?」俺が聞くと「悪だけど強くて、子供に優しい所」と言っていた。
おかげで何をどう解釈していたのか俺は子分作りに励んだ。「いじめられたら俺に言え」
俺は皆にそう言っており、おかげであちこちでグループが出来、ちょっとした戦争だった。
グループの強弱は給食の牛乳の早飲みと、ふたの数。いわゆる子分が皆からふたを集める。
俺には5人の子分がいた。計6人1クラス45人、男子20人ほどだったが一番多かった。
ライバルは天然パーマの市川。あだ名はイッカ。実は仲良かった。
やんちゃな柴田と、陰険な橋口は双方2,3人ずつで集まったり孤立したり。
俺に付いたり、イッカに付いたり。ある意味、自由人。
柴田はだれかれ構わず悪さをする。兄二人、男3人兄弟と言う事もあり、やんちゃ坊主だった。
プールの時、タオルを巻いて着替えている女子のタオルを取って泣かしたり。。。
ぶつかってガラスを割ったり、そのくせ女子にかまれて泣いてたり。。。
スーパーで俺と親父とおねえちゃんで買い物に行った時の事。このバカは、
「お。つっぱ!」「やくざのこどもー!」と、俺をからかった。俺は「こらー!」と追いかけた。
柴田は喜んで「やーい!やくざのこどもー!!」俺にとっては大した事では無いのだが、
周りの空気は固まっていた。「こ、こら。な、なんて事を言う!」と店の人たちがあせっていた。
そして親父が険しい顔をして「帰るぞ」といった。「なんで?友達やで」と俺は言ったのだが.。
今にして思えば親父とおねえちゃんの心中は複雑だっただろうと理解できる。
悪気は無く楽しい子だったのだが。よくその子と兄たちとローラースケートをした。
橋口は、何時も誰かにいやみを言う癖があり悪口とあだ名されていた。
母子家庭らしく父は居らず母は旅館で働いていた。母はよく旅行に行っているらしく、
その間はお婆ちゃんが来ていたらしい。
芸者姿の母の写真が飾ってあり、橋口に良く似ていた。たまに俺と会うと、
「又遊びに来てね。」「仲良くしてあげてね」と優しいお母さんだった。
家には土産物がいっぱいあったが、どこか橋口は寂しそうだった。
橋口の気持ちが俺には解る気がしたが、あえて共感はしたくなかった。
よく土産のチョコをやるから家に来いと俺や何人かに声をかけていた。
ただし、その後、偉そうになるので嫌いな面があった。奴なりの友達の作り方だったのだろうが。
ある時、調子の良い転校生がやって来た。やたら俺を親分と呼ぶ。おかげで、俺は大阪人から、
‘ツッパってるから‘と、つっちゃと先生に呼ばれてた事をたされ、‘つっぱ‘と呼ばれた。
困った事に親父は満足そうだった。
時には喧嘩もある。ところが、意外と俺は強かった。TVで見た事のあった脇で首を絞める技が、
結構役立ち喧嘩で負けた事は無かった。ぎゅっと力を入れ「まいったか!」「まいった」
これで終わり。後腐れは無し。ただし俺の子分。遊びの延長プロレスごっこみたいな物だった。
そして俺は1-2の番長になった。他のクラスはわからない。その程度。

       3   誕生日会
俺は、北川けい子と言う子が好きだった。ある日誕生日会に誘われた。おねえちゃんに伝えると
「あら、良かったねー。プレゼント買いに行かないかんね。」「スーツも出しとこ。」と、
えらく喜んでくれた。びしっと7:3決めて、プレゼント持ってケイちゃんの家に行くと、
ケイちゃんの母が「来てくれてありがとう。さ、入って。」と中に招かれた。が、入って「げ」
クラスのほとんどの女子が座ってた。って言うか男子がいない。。。俺は動けなかった。
「イッちゃんの隣に座って」と言われて「あら。イッカ」と小さい声で呼んだが、イッカは
真っ赤になって下を向いていた。とりあえずケイちゃんにプレゼントを渡し、イッカの隣に座った。
「つっぱ遅いんじゃ」ぼそりと言われ、「男おれらだけ?」「そうみたい」「げ」いつもは
強気な二人もこの日だけは女子に圧倒され、おとなしかった。と言うより俺たちを見てニヤニヤ。
俺達は、ケイちゃんにはめられた。又、20人ほどの女子にも。
帰っておねえちゃんに伝えると「へー。なおとイッカもてるんだ。」とご機嫌。「ちがう!」
その時はどう考えてもいじめだと思っていたが、今にして思えば、もしかしたら俺達は
もてていたのかも?とも思えるが、所詮は小学1年生。大した意味は無かった。

       4  母 再会
冬休みに入り、俺は約束どうり母に合わせてもらうため大阪に行った。おねえちゃんの運転で
岐阜羽島に送ってもらい親父と俺で新幹線に乗る。
岐阜市内から羽島駅まで車で40分。当時電車は無く、バスか車でしか行けない不便な駅だった。
俺が社会人になって羽島に来た時は驚いた。新岐阜駅まで名鉄が20分で結んでいたからだ。
笑顔で「いってらっしゃい」少しさみそうなおねえちゃんが気になった。
新大阪に着き、タクシーで十三の店に向かった。
茶店でしばらく待って母が来た。会うなり俺を抱きしめ「ごめんな。ごめんな。」
と泣きくずれる。俺はどうして良いか判らなかった。が、嬉しくてたまらなかった。
仕事の準備らしく良い匂いとパリッとした白いスーツに栗毛色。わが母ながら綺麗だった。
歩いていても周りの男が母をちらと見るのが判る。母は気にもせず俺を抱き歩き、
おもちゃ屋に連れて行った。「なお。これ凄いやろ。なおに買ったろと思っててん」
タカラがはじめて出した金属のロボット。超合金・マジンガーZだった。マジンガーZは好きだったが、
その時の俺はサンダーバード2号がほしかった。「こっちがいい」「ほな、両方買ったる!」
強引に買ってくれた超合金。それが、その後の俺のおもちゃ人生を変えた。
又、おもちゃ業界も超合金の爆発的ヒットによりその後、恐ろしい数、種類の超合金を発売し
同時に超合金にする為のロボットアニメがたくさんTVで放映された。
その後母は「なお。店いこ」と俺の手を引く。親父は何処かで待つ事になったらしい。
俺がいた頃と違い、母は生き生きとしていた。何かが吹っ切れたのか、改めたのか、少なくとも
俺と離れたから良かったと思う様ではなかった。店を開け「アレー何処の子?」客が言う
「うちの子!似てるやろ。うちの宝や。」「えーそんな大きな子?ほんまに?」皆が言う
店は結構はやっていた。「さ、なお。なに食べたい?」「あと頼むで。うち、なおと出るから」
まーさばさばしてると言うか歯切れが良いと言うか。久々の関西弁と言う事もあり、圧倒された。
子供ながら、お客さんにそんな堂々と子供が居る事を言って良いのかと心配したものだった。
ところが親父と三人で居ると、また、口げんかが勃発。しばらくして岐阜に帰ることになった。。。
それでも、元気な母に会え安心すると共に、母と離れたくないと言う思いが俺の心を締め付けた。
母の居ない時、母の服を持って寝た頃のように、俺は、超合金マジンガーZを離せなくなった。

      5  お母さん
おねえちゃんは本当に良きママ母だった。
2年の時おねえちゃんは妊娠し、俺に兄弟が出来る。そういう話だった。
しかし、逆子だったらしく流産した。その時の俺には逆子の意味が解らなかったのだが、
退院した後おねえちゃんは俺に涙をこらえ解りやすく説明してくれた。
親父は「仕方ない。そういう運命やったんじゃ。又できる。」そう言っていた。
その後、乳が張るたび‘すって‘と言うが「恥ずかしいからいや。」と言うと
目の前でコップに乳を出し「飲み。おねえちゃんの栄養やから」とよく飲まされた。
今まで病気や入院もせず来れたのはそのおかげ?かもしれない。
そして、今まで以上に俺を自分の子のように見てくれたように思う。
勉強に厳しいお姉ちゃんは家庭教師みたいだった。
そして、休みの日など野球から帰ると何時もフレンチトーストを作ってくれていた。
マンションの前に大学グランドがありよく皆で野球をした。5年生くらいの子が教えてくれる。
窓からグランドが見えるので、おねえちゃんは俺の帰りを知っていたようだった。
友達が来るとまた、フレンチトーストを作ってくれる。出来立てのそれは本当にうまかった。
ある時、友達のお母さんから「土屋君のお母さんが作るフレンチトーストってどんなの?」
と聞かれた。俺は、「卵つけて焼いてる甘いやつ」と言うと、「私が作ると、違うって言うの」
「どう違うのって聞いても、解らんけど違う。ツッパのママの方がうまいと言うの。」
と言う。それが、2,3人の母からも言われ、ある時、家のを食べてと言われ作ってもらった。
「ああ。違う。。。。」「やっぱり?」「これ、砂糖かかってるし、卵硬い。」
「おねえちゃんのは卵に砂糖いっぱい入れて半熟っぽく焼くの」「ああ。そうなんだ」
その時、皆がおねーちゃんのフレンチトーストをほめてくれた事が嬉しかった。
よくいろんな友達の家に行くとそこのお母さんに「土屋君のお母さんは若くて綺麗やねー」
と言われ嬉しかったが、「あ。育ての母です」と俺が言い、本当の母は大阪に居ると説明していた。
別に説明する必要もないのだが、隠す事もないし、何より母の存在を消されるようで嫌だった。
おねえちゃんは、お姉ちゃんとして好きだったのだが、やはり俺の母は一人だと伝えたかった。
ある時、誰かからその事を言われたのか、お姉ちゃんは元気なく、親父は俺に言った。
「お前の母さんはもちろん大阪やが、岐阜に居る間はおねえちゃんの事をお母さんと呼んだれ」
他人にいちいち説明するなと言われた。俺は理解できなかったが、おねえちゃんが悲しんでいる
と聞き、納得した。が、お母さんと呼ぶ事はなかなか出来なかった。
俺は毎日50円小遣いをもらっていた。それを持って駄菓子屋へいくのが楽しみだった。
その日、小遣いをもらってなかったのでおねえちゃんに急かした。後でね。と言われ俺は怒った。
俺は非常にその50円が必要だった。実はその日は、おねえちゃんの誕生日だったからだ。
俺は少しづつ貯金をしていた。ケーキを買うために。たしか、950円だった。
何時も買ってもらう、何とかベーカリーと言う店のケーキが我が家のお気に入りだった。
理由を説明すると、店主は「いいよ。これ、50円サービスしとくね」と言ってくれた。
実はもう1つ高い方のが良かったのだが、さすがに買えなかった。
それでも三人で食べるには十分の大きさのケーキだったのだが。
その晩、それを渡すとおねえちゃんは泣き出した。俺は照れ隠しで、
「あと50円足したらもっと大きいの買えたのに。」といやみを言って見せたが、そんな訳は無い。
早く食べようと言う俺に「パパに見せるまでまってね。」と俺を抱きしめた。
その時、自分の努力した金でプレゼントする喜びを知った。
いつか自分がもっと喜びを与えれるような人になりたい。と、そう思っっていた。
俺にとっても、おねえちゃんにとっても、大きな意味のある日だった。
それは、俺が初めて自分のお金で買ってあげた事。そして、ロウソクの真ん中のプレート上だが、
俺が初めて‘お母さんお誕生日おめでとう’と、‘言った’事。
その日から、俺はおねえちゃんの事をお母さんと呼ぶ事にした。ついでにパパをお父さんに。

俺はいろんな人におもちゃを買ってもらっており、俺はおもちゃ屋が出来ると良く言われた。
変な癖があり、箱も取っておく。飾らない物は買った時のように箱に入れ、押入れに積む。
それだけ多く、飾れないのである。ただ、一つ一つにその時の思い出がある。
買ってもらった時の事、買ってくれた人の事、箱から出す時、手に取る時思い出す。
子供にあまり物を与え過ぎてはいけない。などと言う人もいるが、必ずしもそうでは無い。
子供は、TVや本や物から想像力を養えると俺は思っている。
俺の場合、学校よりも映画や、まんがから学んだ物のほうが多いようにも思う。
そして、それらを生かす場が学校であり、おもちゃで想像し物語を立体化する。
車であったり服であったり、自分を飾る物は、自分と共に変わる物。
今でもおもちゃを買うが、あの頃のような感覚は得られない。大人とは鈍感なものだ。
ただ、その頃の気持ちを少しでも思い出させてくれるなら価値はあると俺は思う。

           6 指詰め
親父は、若い頃に、理由は知らないが、左手の小指を詰めている。
そのせいなのか、残った右手の小指だけ爪を伸ばしていた。そして俺は、右手の親指を詰める羽目になった。
とは言っても無くした訳ではないのだが。
ある日、親父とおねえちゃんはパチンコに行き、俺は、下の階に住んでる小林と家で遊んでいた時の事。
夏だったと思うが、暑い時は窓とドアを開け風が通る様にしていた。
5階の風は強く涼しい。5センチほどの厚い鉄のドアだったので、上のチョウツガイの間にスパナを
噛ませるのだが、2年生の俺には届かず椅子に乗りスパナを挟んだ。が、突風にあおられ、スパナをはじき、
バタンッと、大きな音と共に俺の右親指をはさんだまま閉じた。「グア!こば!開けて!」俺は叫んだ。
重いドアは、なかなか開かず、こばは焦っていた。やっとの思いで開くと同時に、右手が血だらけになった。
慌てて水道で手を洗うと、親指の第一間接から先はぐちゃぐちゃだった。
痛みは無く、ズキズキと熱かった。こばは、真っ青になって固まった。
とりあえずタオルでくるみ、「こば、ごめんちょっと寝るわ」「うん。でも大丈夫?」
「大丈夫。すぐ直る。でもちょっと眠いから今日は帰ってくれ。」
本当に眠気がした。おそらく気を失いそうだったのかもしれない。
しばらくして、こばと、コバのお母さんが来てくれた。
「土屋君大丈夫?」と言いかけて青ざめた。巻いていたタオルが真っ赤だったからだろう。
「お医者さん行こう!」「大丈夫もうすぐ父さんと母さん帰ってくるから。」
「じゃあ、おばさんとこで応急手当だけでも」「ううん大丈夫」「させてもらわないとおばさんが困るから。」
と言う事で、こばの家に運ばれた。タオルを取るとそこは修羅場だった。こばが「うわー」と叫び、
おばさんも「これはひどい」と顔をしかめた。爪は剥がれそうになり、皮膚がさけて生身が出ていた。
だが、熱いだけで感覚がなかった為、俺は余裕を見せていた。
包帯を巻いてもらい止めるのを断り俺は家に帰った。
一人になり、ベランダのボンボン・ベットで横になると、徐々に熱さから激痛に変わり、俺は涙と血が止まらな
かった。しばらくして親父が帰った。ドアと水道周りの血を見て驚いた様だ。
「直樹!。何があったんじゃ!」慌てて叫んだ。俺は声を振り絞って
「ドアではさんだ」「ひどいんか?」「つぶれてる。こばのおばちゃんが手当てしてくれたけど病院いかないかん
って言っとった」「見せてみよ!」血で張り付いたタオルをやっとの思いではがし、巻いてもらった包帯を又
はがせと言う。見たとたん「んん。」さすがの親父も声が出なかったらしい。パチンコやに電話し、おねえちゃん
を呼び出してもらい、「すぐ帰って来い!直樹が大変じゃ!」と伝え、しばらくしすると、おねえちゃんが、
慌てて帰ってきた。見ていたかのように親父が説明し、こばのおばちゃんに聞きに言った。
そして親父はおねえちゃんに怒鳴った。「ほれみよ!俺がもう帰るぞと言った時に帰らんからじゃ!」
「虫の知らせやったんじゃ!」と怒鳴った。
実は親父は負けていて、おねえちゃんは出ていたらしい。
つまり、出なかったのは‘虫の知らせ’のせいで、自分の博打運のせいではないと言う事らしい。
そして医者にも連れて行かず、「歯食いしばれ!」「ウガー!」俺は叫び、おねえちゃんは両手で顔を覆った。
親父にオキシドールをかけられ血と白い泡が膨れ上がった。それをガーゼで拭き包帯で巻かれた。
「病院行かんでいいの?」と聞くおねえちゃんに「大丈夫じゃ。わしもこうやった!」で終わらされた。
俺は、今まで生きて来て、その時ほどの痛みを知らない。が、親父の痛みは理解できたと思う。ただし俺は2年生。
それ以来オキシドールが怖くて仕方ない。
しかも、最近の医学では、オキシドールは強すぎて回復が遅れる事が判ったらしく、水道水だけで十分殺菌作用が
あり、消毒した時よりも直りが早く、傷跡が残りにくいと言う事だ。
それを知った時、俺は心の中で(ふざけるな!)と叫んでいた。

        7 あきちゃん
1階にお好み屋が出来た。俺とおねえちゃんはよくそこで暇をつぶした。
入れ替わりの激しい右端の店だった。おねえちゃんは何故かその変わる度に仲良くなる。
今度は、母、娘の店だった。奥は居住スペースが1部屋ありそこに幼稚園くらいの娘がいた。
おねえちゃんと店のお母さんはよく涙ながらの世間話をしていた。お互い苦労しているらしい。
俺もよく娘と遊んであげた。
ある日、娘の誕生日会に招かれた奥の部屋にケーキと特性カレーが振舞われた。
ただ、俺とおねえちゃんの口には合わなかった。目を合わせ「何これ」俺が小声で言うと
「牛乳入れすぎかも」とおねえちゃん。営業しながらの誕生日会の為、その子の母は、
定期的に様子を伺いに来る。「どう?どんどん食べてね。」「はーい」。。
まだこっちで幼稚園に入ってないらしく同じマンションの子供2,3人ほどが来ていた。
忙しくなったのか、おねえちゃんも手伝っていたので子供たちだけになった。
その時隣の中華屋の男の子が、その子を泣かせてしまった。
大した事ではなかった筈だが、その子の母の慌てようが忘れられない。
「どうして、誕生日にうちの子を泣かすの!」「もう帰って!!」
理由も聞かず男の子を叱った。俺は訳が解らず恐怖した。今度は男の子が泣きながら帰った。
とりあえず気まずい誕生日会が終わり俺はその母の事が怖くなった。
それから数ヶ月後、母娘は店を閉めどこかへ行った。
次にちょっとした居酒屋さんになった。男っぽいおばさん兄弟の店。
当然のようにおねえちゃんの入りびたりが始まった。
そして新しい常連客の洋子さんと言うおばさんが加わった。おねえちゃんは洋子さんとえらく
気が合うらしく家にもよく遊びに言った。
洋子さんはおねえちゃんより少し年上の上品なおばさんだった。とは言っても30歳位。
旦那さんと、俺より2つ上のアキちゃんという綺麗な娘がいた。
旦那さんは優しそうな人だった。俺が行くと何時もオセロをした。
男の子が欲しかったらしく、俺を可愛がってくれた。俺を見ると必ず「ここに来い」
と、俺をあぐらの上に座らせたがる。洋子さんが「なおくん、嫌やろうけど座ってあげて」
と、何時も苦笑いをしていた。アキちゃんはそれを見て笑っていた。
アキちゃんと俺はよく、皆が集まる駄菓子屋へ俺の自転車の後ろに乗り遊びに行った。
よくカップルとからかわれ恥ずかしかったが、アキちゃんは楽しんでいた様に思う。
「自分の自転車があるくせに」俺が言うと「いいからのせて。」「なおちゃんいけー」
いつも俺がこがされる。今で言うパシリだったのかもしれない。
ある日俺は無理やり親父に鮎釣りに連れられアキちゃんの家に行けなかった。
帰るとおねえちゃんが「あきちゃんがなおに渡してって。」と、青いドクロのキーホルダーを
くれた。あきちゃんがお気に入りだった物で、ピンポン玉ほどのドクロの顔で、口を開けると
目が飛び出す。俺は、欲しいと言った覚えは無かったので「なんで?」「さー。」
ま。結構、意味不明な所のあるアキちゃんだった。
長い髪のすらっとした美人なあきちゃんは学校でも有名な美人。だが俺はケイちゃんが好きだった。
4年の男子がよく俺をからかってきた。「お前、あいつ好きなんか?」「うるさいわ。向こう行け」
一応、俺は2-1の番長。4年も関係なし。学校では敵なしだと思っていた。
2こ上と言っても2年生と4年生。この年代に先輩、後輩の意識はない。
アキちゃんと居る時にはちょっかいを出さない。今にして思えば、その子達が好きだったのだろう。
おねえちゃんと洋子さんは、そんな俺たちを見て「お似合いやん。」「今から相乗りって」
「なお かっこいいやんかフューフュー」「うらやましいわー」まー言いたい放題。
自分達がくっつけておいて、からかうおねえちゃんと洋子さんは、当時まだ若かった。
それでも俺になついてくれるアキちゃんが好きだった。ただ、恋人ではなく姉でもなく、しかし
ただの友達でもなく、逆に恋人であり、姉であり、時には妹のような不思議な想いがあった。

 
        
           8 瀬戸一家
3年の時、‘こう’の日が増えた。毎週くらいあり、多い日は週2回ほどあった。
場となる我が家に、場代が入るのと、何より親父は麻雀が強かったらしい。
組内でも大事な博打には‘くろ’と言われていたのを何度か聞いた事がある。
その他の日は事務所当番やら何やらで親父は家に居ない事が多かった。
ただ、家に居る時は機嫌が悪い事が多くなり、おねえちゃんとの喧嘩も多くなる。
俺の顔を見ると(男らしくせい!)と、切れる。そのくせ言い返すと殴られる。
かと思えば、人前では妙に優しくなったりと、そんな親父が俺もおねえちゃんも嫌だった。
朝まで続く‘こう’の日は、親父もさすがに疲れるらしく栄養剤を打つようになった。
その頻度が徐々に多くなっているのが俺もおねえちゃんも心配だった。
親父は、瀬戸一家と言う愛知、岐阜、三重の東海地区を中心にした博打打の組員で、
当時はかなりの規模で日本全国で認められた由緒正しい極道つまり‘やくざ’である。
山口組が少しずつ勢力を伸ばしていた時だったが、親父は「あれは、見境の無い‘暴力団’じゃ」
「わしらは、堅気に迷惑をかけず厳しい修行に耐え男の道を究めた極道じゃ。一緒にするんじゃねえ」
と、よく吼えていた。当時の俺には意味不明だったが今は多少理解できるのだが、残念な事に、
その後、瀬戸一家は山口組に潰され吸収されたのだった。
鮎釣りが好きな親父は夏場だけで一年中の日焼けをするため何時も黒い事から「くろちゃん」
と呼ばれていた。兄貴分の人達からは「くろ。」と呼ばれていた。ちなみに身内は「宮ちゃん」
その頃、親父の兄貴分に当たる‘いさにい’と言う人が組を受け組長になり親父の‘おやじ’
になった。親父は若頭(わかがしら)になった。ナンバー2と言う事らしい。
いさにいはイサオと言う名からで、体は大きく全身に刺青を入れ顔はブルドックに似ていた。
ただ、とても無口だが、たまに見せる笑顔がとても魅力な人で、子供の俺には優しい人だった。
奥さんは正反対に小柄でとても勝気なこ奇麗な人だった。組員はもちろん親父もたじたじだった。
「くろ!」と親父を呼び捨てに出来る女性は、おそらくその兄姉‘アンネエ’だけだろう。
だが、どうも親父はいさにいを小ばかにしたような事をよく言っていた。
さも、自分の方が実力が上だと言わんばかりに。そんな親父を俺は嫌いだった。
いさにいの前では敬語を使う親父が陰口を言う。子供ながらにその親父が情けなく見えたからだ。
子分たちはそれに対して何も言わないが、その子分の中にアンネエの弟みっちゃんが居たのに。
おねえちゃんは、いさにいとアンネエに良くして貰っていたのもあり、よく親父に怒っていた。
いさにいとアンネエには子供が居らず、俺を可愛がってくれた。周りに誰もいない時だけ見せる
いさにいの優しい顔と色んな話は、俺とアンネエしか知らないのかもしれないと思えた。
後で気づいたのだが、お年玉がすごかった。学校で「00円以上もらった人」と聞かれた時、
最後まで手を上げたのが俺で10万円以上あった。
実際俺の手元にはおもちゃ代2000円ほどしか貰えなかったが、そう言う物だと思っていた。
又、毎年夏に組内で海に行った。皆プールに行けない為と、中途半端な数で行くと他の組ともめる為、
一家総出となる。何十台と言う数の高級車で旅館を借り切りになる。海辺にはロープが張られ、
一般の人は、こちらに入れないし、こちらも行けない。いわゆる隔離?みたいな物。
ロープを超えて来る人はまず、いないだろう。俺でさえ刺青の大群に圧倒された。
それでも同じ年くらいの子がいて俺は仲良く遊んだ。ところが、その子は‘頭領’の子だった。
一家の偉いさんらしいその子の父に皆、頭を下げる。俺もその子に敬語で話した。
すると、親父に「お前は、その子の子分か?」と言う。「父さんより偉い人の子なら気使うやろ?」
と言うと、「子供同士は気使う必要ないわい」と言われ困惑したことを覚えている。
現在、俺の店に来た時、心樹が、お客さんに「ありがとうございました。」と頭を下げる。
教えた訳でも無いのに。そんな時、嬉しくもあり、申し訳なくもあり、親父の言葉を思い出す。
夜になると、より一層柄が悪い。あちこちで「お疲れ様です!」と言ったり言われたりを繰り返し
落ち着く暇も無い。たえずあちこち見回しながら歩くおっさん達。
その時の俺は、(大人は大変だな)と思い、自分もそうなるのだろうと思っていた。
ただし、その翌年に当たるこの年の旅行は様子が違った。そして二度と行く事もなくなった。
  
          9 親父の狂乱

いつもの様に、明け方日本海に向け出発した。まだ日が上がる前だったので、おそらく4時頃だったと思う。
俺は眠たいのを我慢しながら親父と迎えに来た車に乗った。おねえちゃんと若い衆達が荷物を車に積み、
途中の待ち合わせ場所の事務所前へ向かった。そこには5台ほどの車が集まっており、組長の‘いさにい’
に挨拶し、各組が集まる現地に向かった。
俺はしばらく寝ていたのだが、騒がしい車内に目を覚ますと、親父がわめき、若い衆が必死になだめていた。
おねえちゃんが居ない事に気づき見渡すと後ろの車の前で‘あんねえ’と険しい顔で話していた。
「兄貴、どうしたんすか?」「さむい、さむいんじゃー!」こんなやり取りが続く。
バスタオルを巻いてもガタガタ震えながらほえる親父は、確かに異常だった。
現地までは近かったようだが、行くか戻るかで話し合ってるらしい。
当時は、ポケベルも携帯も無い時代。近くの公衆電話で誰かが話していた。
戻ってくると、「とりあえずもう少しだから現地向かいましょう」と言う事で、再出発したものの、
また親父が暴れだし、おねえちゃんと若い衆は困り果てた。
全員で親父を囲み必死に声をかけるが、「さむいんじゃ!こら!」手がつけられない様子だった。
おねえちゃんは泣き出し、しばらくすると、親父は、「さむいの」「さむいよー」と、
こんな情けない親父の言葉は初めて聞いた。そしてまた、「おろせー!」と暴れだす。
俺には何が何だか解らず見守る事しか出来なかった。そして、一同はやむ無く岐阜に戻った。
その後、一旦マンションに戻り若い衆の護衛が付き、親父と俺とおねえちゃんは軟禁された。
事務所で自体をどうするかを相談していたらしいが、お抱えの医者が来るのも、行動も少し遅かった。
親父は暴れだし、若い衆も、おねえちゃんも、とても止められる状態ではなかった。
親父は皆を振り切り階段を下りて言った。若い衆は震えながら、「ねえさん!すんません!」と泣きながら
‘どす’を持って追いかけようとしたが、おねえちゃんが、「まち!まって!」と泣きながら食らい付いた。
それを払い、若い衆は親父を追った。おねえちゃんは俺に「直樹、家から出たらいかんよ!」と言って、
後を追って行った。事務所から電話があり、事態を伝えると「直樹、お父さんは大丈夫だから心配するな。」
と言われたが、とでも安心できる状態ではなかった。
俺は、色んな映画や、ドラマを見ている。今までの状況で、おそらく‘そう’言う事だと理解した。
‘こう’の時、栄養剤だと言って打っていたのは、麻薬だと。覚せい剤だと知ったのは、翌年だった。
しばらくして、若い衆が、俺を呼びに来た。「直樹、お父さんを落ち着かせてくれ」
俺は、前の大学の裏門に連れて行かれた。門の外は、組員やら野次馬やらで人だかりになっていた。
門越しで親父とおねえちゃんが話していた。「直樹を渡せ!」親父は叫んでいた。
思えば、親父は狂っていても俺を大事に思っていてくれたらしい。それが理解できる年になった時、
俺は、中学生だった。そして無性に親父の声が聞きたいと、大阪で思っていた。
若い衆に‘どす’を向けられ一瞬われに戻ったらしい。しかし、後から追いかけてきたおねえちゃんを見て
皆が自分を殺そうとしている。そう理解したらしい。そして俺と一緒に逃げる為に大学の門の中から、
叫んでいる。そうする事で人目に付く為、若い衆は、‘どす’を抜けない。
確かに親父は頭が切れた。本人は、歴史が好きで、大学に行きたかったと聞いた事がある。
俺に課された役目は、親父と離れない事、そして我に帰った時「家に帰ろう」と言う事。
大学の門の上から贈呈された俺を受け取り、親父と俺は大学の体育館の中をを横切った。
「直樹、逃げな殺される!走れ!」バレーや、剣道の練習中の生徒が皆こっちを見ていた。
不思議なのは、よくあれだけの騒ぎのなか警察が来なかった事だ。
後で聞いた話では、当時は、組の力も強く警察には6時間と言う条件付で話が付いていたらしい。
つまり、その間に親父を組が捕まえろと言う事だった。
親父は、正気に戻ったり、訳のわからない事を言ったりを繰り返す。
時計屋に入り「直樹、好きな時計買ったる。どれじゃ。」「別にいらない。家に帰ろう」「何!」
店員に「それよこせ!」店員は震えながらミッキーの目覚ましを差し出した。
それを俺に持たせ店を出た。後ろでおねえちゃんがお金を払い何やら話し間を置き付いて来た。
親父は気付いていないらしい。何より、親父は財布を持っていない。
そして親父と俺はバスに乗った。後ろからおねえちゃんも乗ってくる。こっちを見るなと合図して。
俺はここまでだった。親父は、バスの中で突然「止めろー!」とほえた。そしておろせと言い出した。
「直樹いくぞ」さすがに俺はキレた。「いや!家に帰る」「なんだと。てめー」俺に殴りかかった
瞬間おねえちゃんが、俺を引き寄せ外から若い衆が親父を抑えた。が、又も振り切り逃走してしまった。
バスの中では誘拐だと思われたが、おねえちゃんが親父は病気だと説明した。
その後1週間ほど、俺は若い衆が面倒を見てくれた。おねえちゃんは親父に付ききりだったらしい。
誰もその時の事を教えてくれなかった。翌年、おねえちゃんが居なくなった時、‘あんねえ’が、若い衆に
おねえちゃんの事を話しているのを聞いて知る事になった。
親父は逃走後、民家に押し入り警官に捕まったらしいが、警察には行かず、組の事務所のベッドに
ロープで縛られ1週間おねえちゃんが寝ずに介抱したらしい。「あんな嫁は居らん。本当にようやった。」
「実際は、ドラマとは違う。私でも根あげてたわ」
「あんな苦しそうなクロみて、殺したった方が幸せと違うかと泣きながら皆言っていた。」と。
それでもおねえちゃんが、「私に任せてください必ず正気に戻します。」と言って聴かなかったらしい。
何度も途中表で泣いていたとも。相当に壮絶だったらしい。
「トルコで知り合ったあの子が、くろにあそこまで出来る子だとは正直思って無かったわ」とも。。


10  何度目かの正直

親父が家に戻ってからは、状況が変わっていった。本家の当番が多くなる一方家には若い衆も来なくなる。
親父は何とか正気に戻ったらしく、後遺症代わりに注射器・恐怖症になった。
かなりの行け行けやんちゃ親父だったが、実は異常に怖がりな所があり、その落差に驚かされる。
昔、下呂と十三で拳銃を突き付けられた事があったらしく、ジュウや、ガンと付く言葉も嫌った。
俺がモデルガンを欲しいと言うと、えらく怒られた。ジュウソウも嫌い、後にガンダムでも怒られた。
子犬もだめ。高い所もだめ。と、色々な弱点があるが、今回のシャブ事件は、親父にとって1,2を
争うほどの最大の恐怖だったらしい。
おかげで、二度と薬に手を出す事は無かったのが救いだったが、何時もぴりぴりしていた。
’こう’も無くなった。おねえちゃんと喧嘩も増えそのたび俺を連れて洋子さんの家にうさ晴らしに行った。
だが、しだいに洋子さんと付き合いだしてから言う事を聴きかなくなったと言い出し、洋子さんのうちに
行くなと言い出した。これには、さすがにお姉ちゃんも怒り、豊橋の実家に帰ってしまった。
しばらくして親父と俺は名古屋までおねえちゃんを迎えに行った。
そしてビヤガーデンに行き、さみしい思いをさせたからと言っておもちゃを買ってくれた。
そんな事が度々あり、俺はおねえちゃんが家出をする度におもちゃを買ってもらえる。そう思うように
なっていた。
ある時、突然おねえちゃんは千羽鶴を織り出した。「千羽作ったらお願いが叶うのよ。」「ふーん。何のお願い?」
ニコッと笑って「お父さんと離れられますように。」「げ!」「うそよ。」しかし、うそではなかった。
しかも困った事に何も知らない親父も時々嬉しそうに手伝っていた....。
ある日、博打の負けが込んだらしく親父は資金繰りに困っていた。そしておねえちゃんのお母さんに
借りてくるよう頼んだ。おねえちゃんはいつもと違う寂しそうな顔をして俺を見ていたが、そんなおねえちゃんに
俺は超合金買ってきて!と土産の事しか言わなかった。
何日も帰ってこず、連絡もつかず、親父が迎えに行くと引っ越して居場所が分からなくなっていたらしい。
親父は洋子さんの家に乗り込み居場所を言えと吠え立てた。何度も行ったらしくとうとうアキちゃん達も
引っ越してしまった。
俺に優しくしてくれた女性は皆いなくなってしまったが当時の俺にはその状況が理解できなかった。
ますます生活も苦しくなって行き、食事といえば鮎ばかりだった。大きな冷凍庫には一年中鮎が入っている。
入りきらない分は居酒屋などに1匹500円ほどで売っていた。天然鮎は高く売れたらしい。
おかげで俺は鮎と言う魚はいつでも食べられる魚だと思っていた。
何ヶ月かして給食を食べ終えると、「つっちゃ!急用らしく帰りなさい。」と言われ、廊下に出ると、
長い毛皮にサングラスを付けたおねえちゃんが俺を待っていた。
「なお。元気?」「…うん」当時の俺にとっての何ヶ月は自分が思う以上に長く、おねえちゃんとの距離も
出来ていて、照れなのか恥ずかしいのか、おねえちゃんの顔を見てうまく話せなかった。
いつものようにおもちゃ屋に連れて行ってもらったが、別に欲しい物は無かった。
それでも何かを選ぼうと思った。俺にとっておもちゃは、その時その時の道しるべであり、出来事を思い出す
鍵になっていた。その時の道しるべは、ウルトラマンタロウの基地の超合金だった。
茶店で今までの生活ぶりを話していると、「大阪のママは元気かな」と聞かれ「..うん」と答えたが、
どういう意味かは理解できていなかった。「じゃあ。また連絡するね。」「え。帰って来たんじゃないの?」
「まだ、途中。」「そうなんだ。。」俺はどうせすぐ帰ってくると思い込んでいたので、あっさり別れた。
親父には秘密という事でおねえちゃんと会った事は伝えなかった。
その後、何ヶ月かしておねえちゃんから電話があった「なお元気?」「..うん」「困ったことは無い?」
「うん」俺は半分怒っていた。どうせ帰って来るならさっさと帰って来てよ!と。「寂しくない?」「うん!」
だが、それが、何度目かの正直で、本当におねえちゃんとの最後の会話になってしまった。
あの時「寂しい。早く帰って来て。」と言えていたら、もしかしたら帰って来てくれたのかもしれない。
そんな想いが、おねえちゃんを思い出すたび俺を苦しめた。
中学を卒業し、俺は理容師の修行の場を名古屋に選んだ。地元大阪で修行するのが嫌だったのだが、
もしかしたら、どこかでおねえちゃんと会えるかもしれない。そう思っていた。
出来ればもう一度だけ逢って伝えたい気持ちがあった。
戸籍を頼りにおねえちゃんを探したが、手がかりは無かった。
大きな大会に出て有名になればもしかしたら会いに来てくれるかも。そんな思いで多くの大会に出て賞を
もらい、小さく新聞にも載ったのだが、連絡は無かった。
それ以来、俺はどんなに愛した人でも、愛していても、別れられる人間になってしまった。
同時に好きになれば、なるほど別れの覚悟をしてしまう。
どんなに愛しても別れが来る。特に俺の場合そういう性分なのだろう。それが恐ろしく、
もう好きな人と別れる苦しみを繰り返すのは嫌だ。ならば、別れは来るものだと覚悟すればいい。
そう自分に言い聞かし、締め付ける心を慰めた。
それほど逢いたい人と逢えない苦しさは俺の心をボロボロにしていた。
だが、どんなに覚悟をしても、その後いくつもの別れを繰り返し、やはり傷付き、それでも慣れていく。
さらに両親の死という決定的な別れをも20代で味合わう羽目になった。

         11 教生の先生

3年になり教生の先生と言う3人の女性の研修生が来た。
一人は体の大きな元気な松井先生、そして中くらいの可愛い先生、そして、小柄な気の弱そうな先生。
松井先生はいつも元気でいろんな遊びを教えてくれた。特に大様落としという遊びは学校中ではやってしまい、
休み時間になると超だの列を作りじゃんけんしながら上に上がって行く。
勉強もわざと間違えては、皆に怒られ「あ。そうでした。」などと言うので、皆、間違うのを期待する。
おかげで、生徒はまんまと勉強に集中して覚えが早くなる。そして先生をいじめたいから勉強する。
学校が終わると公園で待ち合わせ皆で野球をした。松井先生を迎えに行くのが俺の仕事になり先生の寮からは、
俺を後ろに乗せてかっ飛んだ。おねえちゃんの代わりに俺は松井先生が心の寄り所になっていた。
3ヶ月ほどの研修期間が終わり、三人の先生が、手紙とビーズで作ったトンボを2匹皆にくれた。
手紙を読むと俺の良い所、がんばらなければいけない所、好きな所を書いてくれていた。
驚いた事に、中くらいの先生は実に俺の事を良く見てくれていた。もっといろんな事を話せたらよかったと
後悔したものだ。ただ、ほんの少しだけ俺もあんな先生になってみたいなと思わせてくれた。

         12 二度目の転校
それからしばらく俺と親父の2人暮らしが始まった。うるさい親父が居ない一人の時が多く、
俺は宿題もせずTVばかり見ていた。顔を会わせれば喧嘩になり、一人の方が楽だった。
ある日、俺はひどい風邪をひき三日間寝込んだ。驚いた事に親父は、その俺をだしにして
母を呼び寄せた。気が付くと母が横に居る事に驚いたものだ。
おねえちゃんが帰って来ないからと言って母を呼ぶのは卑怯だと思ったが、やはり嬉しかった。
自分で作ったと言う‘昇り鯉’の刺繍の絵の額を持って来てくれた。
この絵のように昇っていく様にと願って作ってくれたらしい。
母はすぐ帰らなければならないと言ったが、親父は母を責めた。結果、いつものように喧嘩勃発。
風邪が治りかけた俺をさらに疲れさせる親父が嫌いになっていた。
それから間もなく引っ越す事になった。
その後も、おねえちゃんの行方はつかめず、ほとんど家にいない親父にとって本家事務所の近くの方が良い
と言う事で長森と言う長良川をはさんで金華山の裏に当たる町に引っ越す事になった。
嫌だと言う俺の意見は、完全に無視され自分の部屋をくれると言う餌ひとつで二度目の転校を強制された。
この時から俺の反抗期が始まり、親父との喧嘩が堪えなくなる。あまり親父が家に居ないのが救いであった。
今度は部屋数は在るものの日当たりの悪い古い木造の奥まった一軒家だった。
事務所と若い衆の努くんの家の間に位置していた。
「近いからお父さん居らん時はうちで飯食え。」努くんは、奥さんと、とっくんと言う幼稚園の子供がいた。
現在、山口組テキヤ部門の大親分になっている。
親父には、兄貴分と言う事もあり夫婦ともにとても気を使っていたが、とても仲のいい家族だった。
明らかに親父より羽振りが良くなっていて、大きくは無いが日当たりの良い一軒家に愛車のでっかいカマロ
が止まっていた。部屋には唐獅子牡丹の刺青姿で刀を持つ高倉健の大きなポスターが張ってある。
そう言えば努くんの刺青は唐獅子牡丹だった。ちなみに俺の学ランの刺繍も唐獅子牡丹。部屋はいつも綺麗で、
いつお客さんが来ても良い様に。これは、極道さんの鉄則らしい。表でええ格好してても部屋を見れば生活ぶり
が分かる。玄関、靴は綺麗に。足元見られるな。ケツかかれるな。ついでに、いつ死んでも恥じかかないように
下着は綺麗に。銭湯いったら横の人より長くしっかりチンこを洗え。そうすると、周りの人はしっかり
チンコ使って男らしく、うらやまいと思うらしい。なんじゃそれ。なのである。
ちなみにケツをかくとは、極道用語で、そそのかされる。とか、策にはまる。とか言う意味で。
油断するな。とか、なめられるな。と言う意味らしい。
ともあれ、新居は日当たりの悪いぼろ借家。天国から地獄の気分だった。風呂はガスをマッチで付けて沸かす。
トイレは当然のようにボットン。小便中いつもウンコがお元気ですか?と言ってる様に見える。
関の家もそうだった様な気はするが、マンション暮らしの長かった俺には恐怖だった。
かろうじて部屋は3つありその1つは俺の部屋になったが、裏は一面ガラス戸で、気持ち悪かった。
有難い事に町の至る所に‘八つ墓村’のポスターが張ってあり、TVでは(たーたりじゃー)とうるさく
エクソシスト2の宣伝が、一人の夜が多い俺を追い詰めた。
今にして思えば相当に運が悪い時期だったらしく、オカルト映画の絶世期だった。
電気代が高くなるため大阪の時のように電気をつけっぱなしにする事は出来ず、ろくに眠れぬまま、
新しい学校に行く羽目になったが、それが何よりの恐怖であり、俺は何もかもやる気を無くしていた。
とりあえず又も関門の転校初日。俺は、岐阜市立長森北小学校4年4組に3学期から登校した。
ただ、すぐ5年だったのであまり覚えていない。
5年1組に上がり、さー又番長はらな。そう意気込んでクラスを見渡すと生意気そうなのがいた。
近藤健二。名字にならいマッチに似た男前な健二も3つ上のやんちゃな兄がいる為、いわゆるつっぱりだった。
母子家庭で、スナックをしている綺麗な母と、兄、妹まゆみちゃんの三兄弟。後に弟が生まれたが..。
そんな環境のせいか、小学生で髪に油をつけ、皮靴を履いていたのは健二くらいだろう。
当然俺と健二はメンチの切り合い。他に気にする相手はいなかった。
厄介なのは学校で1番怖い先生で有名な林先生が担任だった事。20代後半の林先生は、引き締まった
筋肉質の体育が専門の先生だった。何かあると男女お構いなしに強烈な平手が飛んでくる。
授業中よそ見をすると高速でチョークが飛んでくる。ただ、ある日、狙いがずれて隣の女子の目に当たり、
先生はえらく反省し、その後チョークが飛ぶことは無くなった。何事にも熱く生徒おもいな先生は、PTAや、
ママ達から人気が高く、ちょっとしたファンクラブ的なものまであった。卒業生もよく先生に会いに来た。
いろんな授業を提案し、後ろの黒板に英語をカタカナに直したクリスマスソングを暗記させ、毎朝駅伝を走らせ
野外合同体育と称し2組と合同で近くの大きな公園でフットベースなどをした。俺たちが卒業した年に、
皆に祝福され2組の先生と結婚した。つまり堂々とデートしてやがった訳だ。
終戦記念日には宇宙戦艦ヤマトを全学年に歌わせ‘地球を離れ’の歌詞を‘祖国を離れ’と毎回わざと間違って
歌い皆に怒られては謝り、後で皆に祖国って何?と質問されていた。そして祖国のために戦って死んでいった
人達の事を、生きたくても死ななければならなかった人達の事や戦争の傷跡を話してくれた。
休みの日は、よく先生の家に行くとまずいお好み焼きを食べさせてくれた。料理はあまりうまくなかった。
             13 初めての敗北
放課後、俺と健二の果し合いになった。各3人ずつで喧嘩だったが、俺の味方はあっさり裏切り健二に付いた。
当然と言えば当然である。何の義理も無い転校生の俺に無理やり連れて来られた連中だったから。
ただ、負けたことの無い俺は天狗になっていた。軽く二人を泣かし健二に向かった。
ところが、三人に抑えられ健二に近づけない。その後倒されデブのベッツに上から押さえられ身動き出来ないまま
ボコボコに殴られた。一番俺におびえていたベッツが、今までの恨みとばかりになぐられ俺は何も出来ないまま、
悔し涙が止まらなかった。「泣いてるぞ。もう止めたれ」健二が言うと皆帰っていった。
やられたショックと、俺は今まで本当の喧嘩をした事はあるのか?と言う責めとで、起き上がる事が出来なかった。
すると、ムーちゃんが俺を起こし、「たーけやなつっぱ。帰ろう」と、寂しそうに言って俺を担いで帰って
くれた。がり勉タイプの細くメガネを掛けたムーちゃんは、家の近所の食堂の息子であまり話した事は無かった。
家で反省していると親父が帰ってきた。俺の顔を見るなり「どうしたんじゃ!誰にやられた!」と吼えた。
鏡を見ると顔中真っ青に晴れ上がっていた。目の中も切っていたらしく白目に赤い点が出来ていた。
ただ、俺は傷の痛みより、やられたショックのほうが痛かった。
事情を説明してムーちゃんの食堂に連れて行かれた。そして林先生に電話し、翌日クラスで話し合う事になった。
結果的に3人がかりでやられた事になり俺に誤ってもらう事になったが、喧嘩を売ったのは俺であり、負けた事に
代わりは無く、気まずいスタートになってしまった。今まで威張っていた俺が負けたと言う事で健二よりベッツが
調子に乗り出した。弱そうなこをいじめたりあからさまに俺を無視した。そんな俺にいつも優しくしてくれたのが
ムーちゃんだった。
次第にべっつは我がままになり皆に嫌われだした。しかし、体の大きなベッツに誰も文句も言えず俺がやられた
時の事もあり恐れられていた。健二も子分の様に扱われ不満そうだった。
しだいにべっつは何かと俺に絡んできた。「つっぱとカッパって似てるな。」などとからむ。
その度にムーちゃんが俺をかばった。「つっぱ。気にするな。喧嘩するなよ。」「…。」
ムーちゃんになだめられ仕方なくこらえてはいたが、正直な所、又喧嘩したとして勝てるか自信が無かった。
べっつもちょっかいは出すが、いざ喧嘩とまでは行く気が無い。俺の様子を見ながらのいじめだった。
ただし、俺の見方をする弱そうな子には胸ぐらをつかみ威嚇し出した。俺は何も出来なかった。
辛かったのは、先生のいない自習の時などベッツはやりたい放題だった。
黒板につっぱかっぱなどとデカデカと書いたり皆に俺の前で言うよう命令したり。
あからさんな、いじめだった。
             14 番長 復活

6年になり、ある時親父が車を買い換えると言い出し、時々ディーラーの人らしきセールスマンが、
パンフレットと見積もりを持ってよく家に来ていた。
サバンナRX7。当時スーパーカーブームで、ランボルギーニカウンタックは俺達の憧れだった。
国産の市販車で初めてカウンタックのように隠しライトのRX7はもはやスーパーカーだった。
親父は無免許の癖に車好きで、若い頃から色んな車に乗っていた。アメ車のような縦目のグロリア、ハコスカ
フェアレディーZ、ローレル、コスモ、セリカマスタング、そしてRX7に行くらしかった。
パンフレットのそれは、緑のメタリックに、ライトを開けている2シーター。
Zの時は、おねえちゃんが居たので俺は後ろの斜めのガラスに張り付いて乗せられ最悪だったが、今回は俺と親父
だけなのでその心配は無い。俺は楽しみで仕方が無かった。
学校で皆に自慢した。「まじで!つっぱすげー!」俺が買う訳ではないのだが、皆に言われた。
ところが、何週間、何ヶ月経っても来ない。さすがに、「RX7いつくるん?まだ?」と親父に言うと、
「事情が変わった。コロナにするぞ。」「げ。なんでじゃ!俺嘘つきになるやんけ!!」「やかましい!」
案の定、嘘つき呼ばわりされ俺は、ぐれた。そして反抗期でもあってか俺は親父が大っ嫌いになった。
そんな頃、体育の授業でラグビーを習っていた。何故かチーム分けすると俺とベッツは敵になる。
最初は偶然なのかと思っていたがおそらく先生の計算だったのだろう。
当然体の大きなベッツを止めれる男子は居ない。で、ぐれた俺は強かった。
敵なしでボールを持ってベッツが走ってくる。皆、吹っ飛ばされるか逃げる。そこを俺がウエスタン・ラリアット
逆に吹っ飛ばした。ベッツも皆も驚いていた。林先生が飛んで来て「つっぱ!今のブロックは良いが、首ではなく、
足にくらい付け!」何回やっても俺のラリアットが炸裂ベッツはさすがに怒り、林先生には「首狙うな!」と
怒られた。ただ、その日から皆の俺に対する雰囲気が明らかに変わった。
そして体育はバスケットボウルになり、当然のように俺とベッツは敵同士。
チームの皆が俺に期待する「つっぱ頼むぞ!」「おう。任しとけ!俺が取ったらすぐゴール走れよ!」
ワンマンなベッツは、皆に愛想を尽かれていた。そんな皆に威嚇し言う事を聞かせていた。
ベッツは敵視むき出しで俺に向かって来た。俺は自分で言うのも何だが運動神経がよく一枚上だった。
手が出ず、さすがにベッツが切れた。ボールを放さず俺を突き飛ばした。とうとう俺は切れ大喧嘩。
先生が止めに来た時にはベッツが倒れかけていた。「やめんか!」と言われると同時に俺はベッツの顔面を踏みつけた。
シーンとした体育館にベッツの頭が床に叩きつけられた音が響いた。今までのウップンがスーッと消えた。
次の日からベッツは別人のようにおとなしくなり、皆は俺を持ち上げ自分で言ってもいないのに番長と言われたが、
俺は、番長はもういい健二がなれと言ったら、「なら、二人で番長やろう」と健二が言った。
どうせなら北小の番長やろか。俺と健二は気が合った。ただし、皆が嫌がる事はしない。弱い物いじめもしない。
そう誓った。
            15 岐阜市立長森北小学校の番長

当時の俺達に番長は必要な存在だった。他のクラスともめた時、他の学校の子ともめた時など、番長が出ていく事になる。
俺と健二は、学校でも有名だった。特に俺は、転校生で、生意気で、ベッツにやられて、ベッツに勝った強い奴。
健二は大人っぽく男前で強い奴。と言う事だった。気が付けば俺と健二は同じくらい背が高く、ベッツを見下ろせる
ほどに伸びていた。
俺達よりでかいのは、4組の西田だけだった。ただし、4組は女の先生でやたら愛だの恋だのを生徒に語る先生で、
そのせいか、西田を中心に皆仲良く、西田は男子からも女子からも慕われる俺達の理想の番長だった。
俺達から喧嘩を売ったら間違いなく悪者である。
そんなある日、誰かが「4組の奴で革ジャン着てリーゼントの奴が居る」と言う。健二は「何じゃそいつ。生意気やな」
と言い出した。「つっぱ。チャンスやぞ!そいつ呼びだそ!したら西田も来る。人数は相手に合わせるって事で」
「なるほど、それなら堂々とやれるな」所詮6年生。むちゃくちゃな理由を付けて放課後、砂場で決闘になった。
狙いは、西田。こいつに勝てば皆が認める北小の番長。
「つっぱ。西田は俺にやらせてくれ」「大丈夫か?」「つっぱは革ジャン頼むわ」「ちゃっちゃとやって西田手伝うわ」
「よし。」実際目の前に来ると俺達より頭一つ分ほどでかかった。がっちりタイプで倒すのはちと難しそうだった。
革ジャンはひょろっとしてつんとした奴だった。4対4だったが、他の二人はあまりやる気が無かった。
とりあえず「土屋じゃ。よろしく」これがスタートの合図となった。勇気と言う名前の革ジャンは、わりとがんばったが
俺の敵ではなかった。しばらくして、俺の必殺ヘッドロックでしめあげ5分ほどは踏ん張ったが力が抜けるのが解った。
途中西田がヘルプに来たが、俺の蹴りと健二が引き離した。周りは、4組の応援団ばかりで、やはり俺たちは悪者だった。
ただ、ムーちゃんをはじめ何人かの男子と女子が俺たちを応援してくれた。
「どうじゃ、まいったか!」俺が言うと噛み締めて我慢していた。「根性あるな!」よし。と言ってロックをはずすと
息苦しそうに倒れた。その後、西田に飛び蹴りを食らわせ健二のヘルプに入った。さすがに強く中々倒れない。
何とか健二が倒し俺のヘッドロックで締め上げた。「つっぱ、もういいぞ」「西田、引き分けで良いか?ただ、
俺らが番長と認めろ」「勝手にせい!そんなもんどうでもいいわ!だが勇気に誤れ!」と言う。
勇気は「俺のん革ジャンじゃねえぞ!ビニールじゃ!」と俺達をにらんだ。俺と健二は目が点になっていた。
ともあれ、事実上俺達の勝ちで俺と健二は北小の番長になったのだが、そのせいで中学でえらい目にあう事になった。
           
          16   おませな二人?壊れた二人。
土、日など俺達はよく柳ヶ瀬:ヤナガセ:へ行った。そこは岐阜唯一の繁華街で、近鉄百貨店、高島屋
パルコ、などの百貨店をはじめアーケードの商店街がいくつもつながりワシントンホテルなどの大きなホテルも
沢山あった。岐阜には地下鉄が無く市内の足は、バスか、赤い路線電車、通称チンチン電車であった。
結構大きな町で大きなビルが並ぶ都会の雰囲気があり、おかげで岐阜は大阪と変わらぬ都会だと思っていた。
少し離れた西柳ヶ瀬はスナックなどの盛り場で柄の悪いおっさんがウヨウヨしていた。
そして岐阜駅の裏には、有名なトルコ街:金津園:カナズエン:があり夜の街を彩った。
金津園と言えば、3年の時、遠近写世絵大会:えんきんしゃせえたいかい:と言うのがあり、この岐阜駅の
屋上から町を見て遠近感のある絵を描くと言う行事があった。
俺は絵が得意だったらしく、学校代表で何かの雑誌記者が写真を取りに来たほどだった。
しかし、その時ばかりは俺の絵を飾られる事は無かった。当時おねえちゃんが何でだろうと親父にも言っていた。
ただ、俺の絵を見て二人は「そらいかんわ。」と声をそろえた。そう。俺は皆と逆を向いて描いたため、ビルの
看板達は皆トルコの文字が入っていた。今で言えば目いっぱいソープ街を描いた事になる。
さすがに親父は「何でこんなとこで絵描くんじゃ!」と怒っていたが、3年の俺にトルコの意味は解らず、
誰も理由を教えてくれなかった。「後ろを向いて描いたから」ただそれだけで俺の絵は闇に葬られた思いだった。
それ以来、俺はしばらく絵を描くのが嫌になったが、その絵が今もあればレア物だろう。幻の射精大会と名付けたい。
話は戻り、当然そんな場所に子供だけで行ってはいけない。だが、そこへ行くのがつっぱりだった。
当時、校内暴力や家庭内暴力と言った少年非行の真っ只中で大人は子供に対し神経質だった。
校区内と言うのがありこの道から向こうは違う学校区だから行ってはいけないと言う。境付近には補導員が見回っていた。
俺の北小は、中心地で範囲が狭かった。当然すぐ校区外。その度「お前ら何処の学校のもんじゃ!」と喧嘩を売られる。
その度、俺のとび蹴りが炸裂。もしくはダッシュで逃げた。と同時に俺達は有名になっていたらしい。
しだいに行動範囲は広くなり、柳ヶ瀬に行くのも当たり前になっていた。
俺達は健二の家で髪をセットし、健二の兄の服を借りチャリンコで1時間ほどでそこに行き、ねり歩き、
補導員によく追いかけられた。捕まると「何処の学校!ご両親は!」と怒鳴られる。そんな時は、「親、パチンコ」
「どこの!」「そこ」「連れて行きなさい!」と言う事でパチンコ屋まで行き、探す振りをしながら逃げる。
俺は長良の頃から親父達と柳ヶ瀬に来ていたので道にも店も詳しく皆の道案内をしていた。
百貨店のおもちゃ売り場がメインだったが、おかげでエレベーターガールのお姉さんと、おもちゃ売り場の姉ちゃん達
とは友達になった。当時TVゲームが初めて出て、百貨店のおもちゃ売り場ではそれを出来る唯一の場所だった。
常連の俺達は当然うまくなり、客寄せイベントで王者決定戦が行われ、俺は負け知らずだった。
店員の井上たず子と言う可愛いお姉さんが俺を可愛がってくれ、社員食堂でよくおごってくれた。しだいに、
たずちゃんに会うのが楽しみで一人でもよく行ってゲームをしていた。ある時「直君、上で大会やっててエントリー
してあるから商品取ってきて!」と頼まれ出場した。結構大きな大会で、たずちゃんの弟と言う事で出場し優勝した。
どんな大そうな景品かと思えば何かのペアーカップだった。ふう俺とたずちゃんとで1個ずつか。と思いながら
俺には興味が無いのであっさりあげたらえらく喜んでくれたが、事情を聞くと前から欲しかったカップらしく、
しかも俺ではなく彼氏とペアーで持てると喜んでいた。 なんじゃそれ!と、俺は心の中で叫んでいた。
彼氏のつもりだった俺はあっさり撃沈された。その後たずちゃんは転勤になりTVゲームは、ブロック崩しから
スペース・インベーダーへと変わりブームに拍車をかけ、俺の心の穴を埋めるべくインベーダーを打ちまくった。
一方、健二はだんだん派手になりポマードを付け、なんと皮靴を履いて来た。恐らく俺達はどこか壊れていたと思う。

                17 バレンタイン

卒業間近の昼休み、女子に「男子表に出て!」と叫び追い出された。俺は何事かさっぱり解らず、しばらくすると、
「もういいよ。」と叫んでいた。健二は心当たりがあるらしく「あれや。」「なに?」「チョコやろ!」
「なんじゃそれ?」「女子が、好きな奴にチョコ机に入れとるんやろ。」「はあ?」「つっぱTV見てないんか」
「見とるぞ!マンガは。」「知らんのか?」「何時からそんなんあるんじゃ?」「最近じゃねーの?」「ほー」
教室から女子が恥ずかしそうに出て行った。代わりに男子が入り机の中を探していた。そこで俺は後悔した。
俺の机の中は、それは見事にゴミ箱だったからだ。どうせ親父は見ないプリント、給食の残ったパンをハンカチに
包んで入れてありカビが生えていた。そんな事と知っていれば綺麗にしておいたものを。と。
当然そんな中にチョコレートを入れる物好きはいないだろう。と、思いきや4つも入っていた。「げ。」
ご丁寧に奥に入れてある物や、包みが汚れないように端っこや、少し片付けられていた。
3つには、メッセージとイニシャルが書かれたカードが入っており1つには、何も書いてなかった。
ま。結局女子の方がおませなのである。俺はチョコレートが食えて嬉しかった。
ところが、浅井が泣き出した。「俺、入ってない!」と.。
次の日から、女子の雰囲気が変わった。相手の反応を気にしているらしい。健二は一番多く当たり前のような
顔をしていた。俺はイニシャルなんて解らない。H.S、S、I。長森には、やたらと沢田と言う名字が多く、その内の
二人だろうSと、Iと、無名。結構気になる。健二いわく、来月その中に好きな子がいたらお返ししなければ
ならないと聞き、相手が解らない事にはどうしようもないと言うと、「俺好きな子おらんから返さんで良し」と言う。
俺は西村たまきと言うわりと優等生な子が好きだった。ムーちゃんは、2つ入っていたらしい。
ムーちゃんにアルファベットの本を借り調べるも、Nはなし。無名さんは?などと期待もしたが、不明。H.Sと、Iは
すぐに解った。ムーちゃんと俺と何故か付き合いの無いもう一人の男子と女子三人とで土曜日に遊びに行こうと女子
3人に誘われた。その中の一色が、Iらしい。同じ班で、いつも掃除の時などにからかう仲だったが、その日は妙に
照れていた。すると今度は、冬美たちが遊びに行こうと誘ってきた。恐らく学年で一番可愛かった沢田冬美がH.Sだった。
これは意外だった。冬美は双子で4組に雪美がいた。そう言えば西田たちとの喧嘩の時もいた。
それと、修学旅行の時、奈良の旅館で何人かが食中毒になり俺がリヤカーで医療所へ運んでやった事があった。
その時、俺の顔をじっと見つめていたのを思い出した。俺は好き嫌いが多く、食べなかった物の中に悪い物があったの
だろう。きっと漬物だと俺は心の中で言っていた。
女子に誘われたことの無い俺はつい両方のグループにいいよと言ってしまい、どっちと行くのと責められた。
「みんなで行ったらいいやんけ!」と言うと、隣でムーちゃんがため息をはいていた。
結局その後、曜日を変えて2グループと遊び、残りの二人は分からず終い。
その後、女子はだんだん積極的になって毎日手紙が来る。内容は{あなたがあの子が好きなら私はあきらめます}。
お互い似たような内容だが、;つっぱ;から、あなたへ昇格されても対応に困り、俺は無視する事にした。
俺は、まだ付き合うとかそういう事に興味がなく、TVの中の金髪のお姉さんと、メーテルに恋していた。
         

 

 

 


妻、娘、俺のすべて
  1 久仁子との出会い
俺の人生で一番幸せな事は、妻 久仁子との出会いだった。
そして、心樹の誕生により俺の生きる意味は大きく変わった。
俺は親父の余命がわずかである事を知った時、元嫁との結婚を決意した。
愛するよう努力はしたが、親父に続き儀父の葬儀、妹達との同居などの環境の変化と、
母に貸した俺名義のカードと義父に貸したカードも財産代わりに俺の手に戻る羽目となり
おまけに山のような出費の嵐による借金の事もあり元嫁のストレスは俺への不満となっていた。
元々結婚する気が無かった事を知っている元嫁にとっては、俺の口先だけの愛情は通じない。
申し訳ない気持ちと、納得いか無い気持ちと、愛そうとする気持ちが相手を傷付けて行った。
そして、その不満が妹達に向かった時、一年持たず離婚と言う答えを出したが複雑な思いが残り、
俺は振り切るように家を出た。店で寝泊りしていたが、妹達の事もあり何度かは家に帰った。
俺がいない間は妹達に優しく接している事を知っていたからだった。
また、妹達は元嫁が可愛そうだと俺を責める事で仲良く行くのではないかと思っていた。
しばらく思惑どうりに行っていたのだが、それも長くは続かず会えば喧嘩になり、お互い取り返しの利かない又、
どうする事も出来ない、お互いを傷つけるだけの言葉を交わす度、愛情も削れて行った。
そんな頃、同級生の山田と会った。前に会った時は漬物を売っていたが、その時は仕事を探していたらしい。
奥さんは何度も会った事があったが、いつも一歩下がって微笑んでいる。
会うといつも苦労話を自慢げに話すこの夫婦は、仲の良い夫婦に思えたが、二人の子供の事は
ほったらかしに見える不思議な夫婦にも思えた。
「土屋さん、またビリヤード連れてってください。」奥さんが言った。
「あー。俺いま結構ひまあるからいつでも良いで。行こう」そう言うと山田は日を決めようと言った。
そして行き付けだったアイゼンビリヤードに何度か行った。
その時に奥さんの後輩の久仁子の話題になった。誰か良い人は居ないかと。
ちょうどみっちゃんと言う連れがいて、気が合えばくっ付けようと言う事になった。
久仁子はエステで働いていた。キューを持ってデコルテ?の練習をしていたので
俺は可愛いけど少し変わった子だなと言うのが第一印象だった。
みっちゃんはえらく気に入った様子で誘っていたが、あしらわれた様子だった。
俺が離婚を前提に別居している事は皆に言っていないので世話役に徹するつもりだったが、
何度か会うにつれ、そんな久仁子に惹かれていく自分に戸惑いもあった。
ところが、車で元嫁と離婚話をしている時に山田夫妻と共に久仁子が横を通り軽く会話を交わした。
ある日、何かの会話中に元嫁が「あの子あんたに気があるんじゃないの」と言う。
おそらく俺の気持ちを悟ったのかもしれない。まさか、本当にそうなるとは思わなかった。
勇崎と飯を食いながら近況を話していた。俺を気遣ったのか、「カラオケでも行くか。
たまには発散せい!」と言う。そして「男同士じゃ色気無いな。誰か居らんのか?」
「。。来るかどうか解らんけど、ちょっと気になる子おるから呼んでみよか?」と俺は言った。
「おお?なんじゃそれ。呼べ呼べ」俺は来んわな。と思いつつ電話した。
すると、近くだったからかも知れないが、久仁子はあっさりやって来た。
久仁子の歌の上手さに驚きつつ、しばらく三人で歌っていると勇崎は「俺そろそろ時間やわ」
と、気を利かす。ただ、現状の自分がどうこう出来る身分で無い事もあり久仁子を家まで送る
事にした。マンションの下に着き「今日は来てくれて有難う」と言うと「楽しかったです」と言う
久仁子の笑顔を見た時、俺は久仁子に惚れている事を自覚した。
「もう遅いけど良かったら個室のラーメンの上手いビリヤード屋あるんやけど行かへん?」
「少しならいいですよ。」「よっしゃ行こう」
それが俺と久仁子の初デートだった。
そして、その帰り風呂を借りる事になり愛犬アンに御対面と同時に敵視むき出しで吼えられた。
俺は、久しぶりに人を愛し、想いが突然叶った様な喜びと同時に結ばれる事の無いであろうと思う
悲しみを感じていた。
久仁子は俺の事を何でも知りたがった。ほとんど質問攻めだったが不思議と何でも話せる自分がいた。
そして色んな事を伝えながら忘れていた記憶が蘇る。それを楽しそうに聞く久仁子が愛おしかった。
しばらくそんな日々が続いたが、お互いこれ以上惹かれ合うと別れが辛くなると思い早めに家に帰るようにした。
俺はもう誰とも結婚しないと決めていた。少なくとも妹達が大人になるまでは..と。

            久仁子の両親
その後、俺は仕事が終わると久仁子のマンションへと急いだ。
俺が転がり込んだ形だった。久仁子は風呂を貯め、ご飯を作ってくれた。下のコンビニで
焼き芋アイスを買い、風呂で一緒に食べる。風呂嫌いのアンも大好物の焼き芋アイスの為なら濡れても入ってくる。
ぷるぷると震えながらフガフガ言いながら食べるアンを見て二人で笑ったものだ。
遅くまで色んな話をした。お互いの記憶に残るように。いつ会えなくなっても良いようにと。
久仁子も色々苦労をしていたらしく、その時の俺が言うのも変だが、良い人と結婚して幸せになって欲しかった。
こんな言い方をすると遊びなのかと思われるかもしれないが、俺は本気で愛していた。
これが俺の矛盾なのだろう。でも、おそらく本当の愛とは、そう言うものだと思う。
愛があれば。努力すれば。そんな言葉は当時の俺には皆きれい事であり、現実は甘くは無い事を、又、
自分の出来る限界を感じていた。とても、久仁子を幸せに出来る状況ではなかった。
久仁子との一時は、山済みの問題を抱えた俺の現実逃避の甘い一時であり、久仁子と離れた瞬間に俺は
現実に引き戻され、どれも解決出来ないまま、時間が少しでも解決してくれるよう願っていた。
そんなある日、のぞき事件があり、違う階へ引っ越すかと言う話があった。
空き室の部屋を見に久仁子の両親が来ていた。「なおちゃん。ちょっとおいでや。親が会いたいって」と言う。
「げ。俺、何ていうて会うねん。」「うちの親大丈夫やで。全部知ってるから」「げ。うそ。」と言う事で、
たじたじの俺が行くと元気なマミーが「あらどーも。久仁子の母です。ヨロシクデス。」パピーは笑っていた。
とりあえず月並みに挨拶をしたように思う。
ただ、不倫関係にある俺にそんなに明るく接してくれる両親に違和感があった。
それもそのはず。実は両親にろくに説明していなかったらしく、普通に新しい彼氏と思っていたらしい。
ともあれ、とても仲の良い両親に見えた。初めてなのに前から知っているような、そんな遠慮させない
接し方で受け入れてくれたような温かさを感じ、俺はさらに罪悪感を感じていた。

      離婚の始まり

正式に離婚していない事と妹の事もあり何度か家に戻り元嫁と話し合ったが、いざとなると別れないと言う。
終いには、すべてを受け入れるから戻って欲しいと言い出され俺は困った。
妹達は俺を勝手だと責めた。
事の発端は、妹達との同居が気に入らないと言う言葉だった。
静香の悪さがエスカレートしていた事もあり、相手は、しだいに妹たちへのあたりがきつくなった。
そして、俺の保険の受け取りを妹達にしている事を責め、自分に変えろと言う。
元々相手との出会いは、俺に何かが有った時、妹たちに少しでもお金を残してやろうと入った保険の
担当者として来たのが相手だった。当然保険内容は一番理解していた。
「それなら新しくお前が受け取りの保険に入れば良いやろ。」と言うと、そんな余裕あるのかと責める。
しまいには、「何で、借金までしょって余裕も無いのに、言う事聞かない妹たちを面倒みなあかんの!
施設に入れたらいいやん!」と言い出す。
こうなってはもうお手上げだった。ただし、こう言わせてしまったのは自分だと理解していた。
結局、愛してあげる事が出来なかった俺へのストレスが相手を追い込んでいた。
ただ、当時の俺には色んな意味で余裕がなかった。仕事も金も家庭も。何より自分に。解っているのは、
しなければいけない事ばかり。そしてどれも満足に出来ない事ばかり。どれも自分が望んだ事ではないから。
俺は女を殴るのが嫌だった。しかし殴ってしまう俺が居る。昔、殴ってしまい相手の女の子は、
前歯を折ってしまった。そんなに強く殴ったつもりはなかったのだが、翌日真っ青に腫れ上がった顔を見た時、
男と女ではダメージがこんなに違うのかと驚き、二度とこんな思いはしたく無いと思った。
以来、自分が抑えられなくなるとその場から逃げる癖がついたが、相手に「逃げるんか!」と言われる事ほど
悔しい事は無い。そんな思いを毎回帰る度に味わい、家を出る。
自分でも何の為にこんな生活をしているのか解らなかった。ただ、俺が家を出ると妹達には優しくなる。
俺を悪者にする事で妹達と同情の気持ちがわいたらしい。
相手は、そんな状況を何とかしたいと俺の親戚や勇崎に相談し、俺は皆に家に帰り仲直りしろと責められた。
しまいには、女が居るのかとも疑われた。実際、久仁子と出会ったのはもっと後の事だったのだが。
何とかうまく生活できないか。相手に言わせれば、妹たちが言うことを聞かないと言う。
妹達に言わせればどうすれば良いか解らないと言う。
原因は俺の愛情不足なのだが二人の生活がないからだと相手は思い込んでいた。
それでも時々は仲良く円満な日もある。しかし些細な口喧嘩はさまざまな出来事を口に出し、俺にとっては
それを言ったら、どう仲直りするんや?と言うほど、ぼろぼろな状況を積み重ねて言った。

相手の親は一度別れて白紙に戻してくれと言う。俺もそれを望んだが相手の気持ちは割り切れない。
俺への愛と憎しみが交互に現れる。お互い離婚という結論を出し、離婚届を書き区役所に行っては、
やっぱり待ってくれと言いだし、また喧嘩しては書く。そんな事を何度か繰り返しお互い疲れていた。
いつしか俺が愛するのを待つと言う相手と反対に俺は別れを待つと言う変な状況に陥った。
結婚と同時に葬式つづき苦労続き、何もしてあげれないまま傷付け合いばかり。
明らかに俺に非があった。しかしどうしてやる事も出来ない。
お前が理解しろ。あなたが夫らしくしろ。そんな言い合いが絶えなかった。
もしあの時”変なおっさん”に会えていなかったら別れられずに居たかもしれない。

        一期一会と変なおっさん
そんなある日、店を閉め家に帰れず飯でも食べようと歩いていると突然知らないおっさんに声をかけられた。
「にーさん!すいません!」「は?」「変な事言いますが、この携帯に出て拾ったと言うてくれませんか?」
「はあ?」「事情は後で話しますさかいほんまにたのんます。」と、必死に頼まれた。
言われたとおり掛かってきた電話に主に伝え切ると「にーさんすんません。ありがとう。良かったら一杯
おごらせてもらえまへんか?」と言う事で、焼き鳥屋に入って事情を聞くと、会社でトラブルがあり、
その為に今まであっちこっち走り回ったらしいが、解決には至らず、上司に報告出来ないらしい。  
結果、苦肉の策が、携帯を落としてしまい、連絡出来なかったと言う事に俺は手伝わされた訳だ。
そして、会社の愚痴を聞かされ、さらに家庭の愚痴へと発展していったが、暇な俺には、良い暇つぶしだった。
愚痴ばかりで申し訳ないと俺にわび、真を突いて来た。「にーさんもなんか悩んでますノンか?」
「え?」「さっきからわしの話ジーっと聞いてくれて張りますけど、なんか寂しそうですな。」
「そーですか?ま。僕もいろいろありますわ」「良かったら聞かせてくれませんか?ここで会ったのも何かの
縁ですし、他人のおっさんですから何でも言いやすいでっしゃろ?」と言うことで、結構細かい事まで話した。
確かに、俺の事を何も知らないおっさんだから、どう思われても構わないと言う思いからか、不思議なほど
本音で素直に話せた。すると意外な言葉が飛び出した。「にーさん。何悩んでますのん。別れなはれ!」
俺は涙が出そうだった。「私は見合い結婚で、まあいいかってなもんで結婚したんですが喧嘩するたび後悔し、
にーさんみたいに何度も自分に言い聞かせました。結婚したんやから。責任やからと。いつか子供が出来たら
愛情も沸いて良い家族になるやろうと。でもね結果は悲惨ですわ。今のわし見て下さい。さっきも言いましたが
嫁とは会話も無い。子供たちには駄目親父とばかにされ会社ではこき使われ。挙句の果てに今頃離婚してくれと
言われてますねん。何の為に堪えて来たのかと。もし、やり直せるならあの時、絶対別れてます!」「...」
「にーさん。別れる奴って無責任やと思いますか?」「違いますか?」「離婚ってもの凄くパワー使いますよ。
もちろん自分も相手も親、親戚がいますし。逃げる奴は簡単かもしれませんけど。」「確かに。。」
「私がにーさんの親戚かその友人やったら同じ事言うたかも知れませんが、何も責任無い一人の男として
言わせてもらえば、絶対別れて下さい。」「...」「幸い子供さんも居ないならお互い若いんやし相手も、
今ならにーさんよりもっと自分に合った相手に出会えるかも知れんし、もし、やっぱりお互いが良かったと
思えばやり直しも出来ます。でも、別れるのは、今しか出来ませんで。仮にしばらく仲ようなっても又、
こんな状況なってその時、子供がいてたら、又は、年取ってしまってたら。わしみたいになってほし無いんですわ。」
「僕もそう思ってはいるんですが、どうすればうまく別れれますか?」
「うまく別れよう思うたら無理ですわ。相手がにーさんの事嫌いやって言うなら別ですが。めっちゃ
悪者になってあげるしかありませんな。」「悪者ですか。」「そう。鬼になるくらいの気持ちがなかったら、
泣きつかれたら情に流されますわ。相手の為でもあると、自分に言い聞かせなあきません。ただ、私には、
それが出来なんだ。何度も後悔しました。もっと別な人生があったんちゃうかって。」
「...ありがとうございます。何か決心つきました。」
「もしかしたら、にーさんの無くなった親御さんがわしに伝えさしてるんかも知れませんな。
お互い名前も聞かず別れましょう。もし、わしに話しがあったら、ここに電話ください」
と、最後に携帯番号が書かれたメモをくれた。
その時、親父が死ぬ前に言った「一期一会って意味解るか?」の言葉が俺の心によみがえった。
だから、あえてメモは捨てた。一期一会の意味を知るために。..
親父が下呂温泉病院に入院して間もなく、俺が病院に向かうと別館から出て来た米倉先生と出合った。
米倉先生は、長良で開業している理容師の先生で、親父の行きつけの先生であり、全理連中央講師と言う
肩書きもあり、ハーフの様な顔をしていて特に中部では有名な理容師の先生で、俺が理容師として修行するさい
名古屋の店を紹介して頂いた先生である。又、名古屋の店をやめた時、俺を一時預かってくれ、東京の店に
紹介してくれたのもこの先生であり、20才の頃付き合い「結婚して」と言われた彼女の父でもある。
二人の美人姉妹の父であり長女が一美(ひとみ)次女が一枝(かずえ)先生は一(はじめ)一番が好きな人。
妹の一枝ちゃんが腰を痛め治療で下呂温泉病院に来ていたらしく丁度退院して帰る所だったらしい。
しばらく一美の話には触れず世間話をし、親父が癌で余命が少ない事を伝えると見舞いに来てくれた。
お互いこんな偶然があるとは。と驚いていた。
そして先生が帰ると俺とあきちゃんに、「一期一会って意味解るか?」と親父はつぶやいた。
あきちゃんは、「一生に一度出会う又は、一度しか会えなかった人の事やないんか?」と最もな回答をした。
「お前は?」と聞かれ「そうなんちゃう。」と答えたが、親父は黙っていた。
親父の聞きたい答えは解っていた{一つの大事な時期に現れ出会う。そしてその後、会うべき時にもう一度出会う}
不思議な縁のある人がいる。それが、親父の思う一期一会であり俺に求めた答えだったのだろう。
親父にとって正論は通じない。当たり前も通じない。絶えず物事には意味があり、それを自分で考え答えを出せ。
言葉に惑わされるな。自分の頭と体で考えろ。皆がそう言うから正解とは限らない。そう言う人だった。
魚好きな親父は鮎の事をあいと言う。ベランダには鯉がおり、毎日こいを見てあいを味わえれば幸せだと言っていた。
一々こじ付ける言い回しや、げんかつぎ、勝手な解釈と、矛盾な事を堂々と言い、自分の体で考え理解しろと言う。
色々とややこしい親父ではあったが、やはり同じDNAのせいか、少しずつ共感できる自分に驚かされる。
教えられた答えが、必ずしも正しいとは限らない。一つとも限らない。結局、答えとは、誰かが決めたものであり、
ルールみたいなものかもしれない。人生の中の多くの事柄は、数学のように正しい答えが出る計算式は無く、
最も困るのは、幾つもの答えがあり、その答えが時間と共に変化し、元の時間の答えまで変わる事もある。
つまり自分で答えを選ばなくてはいけない。それが判断力だろう。しかし度が過ぎると自己中でしかない。
だから一般的に、そして客観的に答えを選ばなくては社会人ではない。それでも自分の感じる答えを探す事は楽しく、
勝手な解釈は、想像力と説得力がいる。強制や無理な主張をしなければ、ある意味本人の自由である。
したがって、俺にとって宗教ほど矛盾な物は無いと思っているのだが、親父は神を、母は、キリストを信じた。
などと哲学を語る俺は、親父が勝手な哲学を語る度に言い返していた。言葉のゲームのような物だった。
ただし俺の口から出る言葉は、あえて正論を短く親父に答えた。「つまらんやっちゃな」と思ったに違いない。
親父は何時も「何でそう思うんや?」と俺に問いかけた。
俺自身そう思って言っている訳でもなかったが、親父の屁理屈にうなずくのが嫌だった。
それでも「大人になったらお前にもわかるわい。俺の言ってる事がな」と笑う時もあったが、大抵最後は
「しゃらくせー事いいやがってこのガキが!」と怒鳴られる方が多かった。
鮎はいつでも食べれる魚と思っていたのと同じくらい、親父みたいな大人が普通だと思っていた。
社会人のまじめな人の方が少ないのだろう思っていた。
今にして思えば、俺は親父が好きだったらしい。もっと色々語りたかった。今なら素直に話せるかも。
と思っていたのだが、最近夢に親父が出てきたが、やはり俺と親父は口喧嘩していた。
目が覚めたとき何故か笑ってしまった。そして、俺と親父はやっぱりこうでなくちゃな。と思えた。
    
            離婚
    
      
         
ある日、俺と勇崎と久仁子で中華を食っていた。奥に勇崎、階段を背に俺と久仁子が座っていた。
会話の途中、勇崎が言葉を詰まらせ口を開けたまま青ざめるのが解った。
振り返ると相手が階段を上ってきた。俺のシーマを見て上がって来たらしい。
相手は状況を理解し「土屋の嫁です!どうも!」と、久仁子に詰め寄った。
勇崎の後輩と言う事で話を合わせ、相手を連れておろすと、「ん。あのこ。くにちゃんってこやん!
山田さんの後輩の!」と真を突かれた。さすがに開き直って「今更関係ないやろ!」と吼えたが、
正式に離婚していない以上事態は最悪になった。
しかし、それが相手にとって離婚を決断させる事になり、状況は急展開していった。
ある日、久仁子のマンションの下に車を止めると横に車が止まり助手席の窓から相手が声をかけた。
「今から彼女の家へお帰りですか?」と皮肉る。運転手の清水という女の子は、してやったりという顔だった。
「それが何か?」と言うと「まだ離婚してない事忘れんとってや!」と言い、去っていった。
山田の嫁に住所を聞いたのだろう。浮気現場を抑えてやったと言うような勢いだった。
久仁子に直接電話をかけ「うちの旦那は大変やで。それでも良ければあげるわ!」と言われたらしいが、
気の強い久仁子がどう対話したかは想像したくない。
その後、調停に呼び出される羽目になったが、調停員に説明し浮気が原因での離婚で無いことは証明され、
財産はなく、借金を分ける事も出来ない事から引越し費用を持つ事で和解離婚となり、相手は速やかに家を出る
よう言われ結果的には、きれいに離婚できた形になった。しかし、それで火が付いたのか、
家に戻ると、俺の部屋には、カーテンをはじめTVも布団も無くなっていた。驚く事にエアコンもはずして持って
行ったらしい。最初に困ったのは、電球が無くなっており真っ暗で何も見えなかった事.。そして、
冥土の土産とばかりに家賃をはじめ電気、ガス、水道などの一切を延滞しており支払いに追い討ちを食らった。
それでも、悲しそうに去られるより俺にとっては良かったと思えた。
どうせなら思いっきり嫌われてやろうと、持っていった座椅子は俺のだから返せと言った。
後日、江坂で待ち合わす事になり愛車のシーマで待っていると、セルシオを運転して現れた。
俺が車好きなのを知っている相手はしてやったりって所なのだろうが、高い車なら何でも良い訳ではなく俺の
こだわり、好み、愛着は理解していなかったのだと改めて分かり残念に思えた。
座椅子を受け取り「エー車やノー。彼氏は金持ちらしいな。」俺は羨ましいフリをしてやった。
「大した事ないわ」相手は言う。俺は心の中でハイハイと言っていた。
「じゃーな。」と俺が言うと「新御堂どこでUターン出来るのん?」と言う「途中まで付いて来たら?」と伝えた。
そして新御堂に入り、ぎこちなく走るセルシオに窓から手を振り、俺は自慢のターボに火を入れた。
一瞬でセルシオはバックミラーから消え去り、相手を見たのはそれが最後になった。